礼拝メモ 5月5日 『内的葛藤からの解放』

聖書 ローマ人への手紙7章14節〜25節

 ローマ人への手紙は、マルチン・ルッターが信仰義認に目覚めた手紙であり、ジョン・ウエスレーが新生の恵みを受ける契機となった手紙です。この手紙の内容をしっかりと把握しておくことは、信仰生活に良き土台を据えることになります。心の目を開いて学んでいきましょう。

 さて、今朝は長年論争のあった箇所です。その論争とは、ここに書かれていることがクリスチャンのことなのか、ノン・クリスチャンのことなのか、という問題です。14節には、「私は肉的な者で、売り渡されて罪の下にある者です」と書かれています。これは、ノン・クリスチャンの姿ではないかと思われますが、「私」という言葉はパウロのことですから、クリスチャンの姿と思われます。これはパウロの心の葛藤を語っていると理解するべきでしょう。

 15節から読み直してみてください。パウロは、自分のしていること、したいことを判別しています。罪と自分とを見分けています。これは、この箇所の重要なことです。罪と自分を見分けた上で、罪の性質にとりこになっている自分に悩み苦しんでいます。その最後に、「私は本当にみじめな人間です」と告白しています(24節)。

 この「みじめな」という言葉は、ジョン・ニュートンが「アメイジング、グレイス」の中に自分のことを歌った言葉でもあります。「わたしのような惨めな者を救ってくださる」恵みをたたえた賛美です。

 24節の後半にある「この死のからだ」とは、6:6にある「罪のからだ」と同じもので、きよめられていない自我のことです。「からだ」は死にますから、この罪の性質からの救いがあることが示唆されています。

 私たちは信仰によって罪の赦しをいただき、義とされました。同じように、罪の性質も、イエス様の十字架につけられて死んだものと、信じて生きて行くのです。罪の性質は執拗に働きますから、信仰の言葉によって勝利して行きましょう。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:7)は、私たちを支えるみ言葉です。

 一人の漁師が魚を捕って村に売りに行きました。村人は貧しく、だれも買ってくれません。ところが、一人の金持ちがこう申し出ました。「私がお金は全部払うから、村に行って、魚をほしい人に分けてやってくれ」と。

漁師が村に行って、「ほしい人にただで差し上げます」と言っても、初め、村人は信じませんでした。一人の若者が「ください」と言ってもらっていきました。それに続いて、村人たちももらいに来ました。そして、全部の魚がなくなりました。イエス様は、この金持ちのように、ご自分のいのちを捧げて、私たちのために救いを用意してくださいました。信仰をもって受け取る人は救われるのです。感謝ではありませんか。

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