聖書 創世記49章1節〜27節
タイトル 「ヤコブの祈り」
この箇所は147年の生涯を閉じようとするヤコブの祝福と預言が記されているところです。ヤコブは、自分の子どもたちの一人ひとり名前をあげて語ります。
ルベン、シメオンとレビ、ユダ、ゼブルン、イッサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ヨセフ、ベニヤミン。この中で、ユダ部族から王が現れることは、ダビデによって成就しました。しかし、その他の子どもたちの中には、ヤコブを悲しませることが語られています。ヤコブの心にはやるせない思いがあったのでしょう。そして、突然、一言の祈りが口からほとばしります。
「主よ、私はあなたの救いを待ち望む。」(18節)
ヤコブの心には、子どもたちの将来に救いが必要だという思いが浮かんだのでしょう。ですから、この言葉は祈りの言葉でもあります。
ヤコブは、この祈りを捧げましたが、その答えを見ることはできませんでした。この祈りは信仰の祈りです。主は、必ず、救い主をお与えくださるという信仰です。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)とあるように、ヤコブは目に見えない将来を確信したのです。
ヤコブの祈りは、主イエス・キリストによって答えられました。ヤコブだけでなく、アブラハム、ダビデ、イザヤが待ち望んだ救い主が来られたのです。彼らの祈りは答えられました。信仰の祈りが答えられたのです。ただ、彼らの思いもしないほど時間がかかりました。
今、私たちはこの救い主を信じて救いをいただきました。私たちも、信仰を持って主を仰いだのです。「目に見えない」主を。ペテロは言いました。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見ていないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」(Ⅰペテロ1:8)
私たちの生活の中にも、ヤコブのようにさまざまな悲しみや課題があります。それを主の前に持ちだし、助けを求められることは何と幸いなことでしょうか。
ヤコブは自分の子どもたちのために祈りました。私たちも、家族の救いのために祈っていきましょう。
ヤコブの悲しみは私たちの悲しみ、ヤコブの祈りは私たちの祈り、ヤコブの信仰も私たちの信仰。これが聖書の世界です。そして、21世紀の私たちは、3000年以上昔のヤコブとの交わりをいただけるのです。
もうすぐクリスマスです。私たちのためにお生まれになったイエス・キリストを仰いで、悲しみや課題に解決をいただきましょう。祝福を祈ります。