聖書 ルカの福音書6章1節〜16節
タイトル 「イエスと安息日」
山上の説教はイエス様の言葉のうちでも最も大切な教えでした。しかし、イエス様の生涯の中には、その教えに耳を貸さない人たちが現れます。パリサイ人と言われる人たちで、これは、人種のことではなく、ユダヤ人の中で特に律法に真剣に取り組み、細かい規定を設けて、それを守ることに執心する人たちのことです。その結果、自分たちの意見に同意しないものを排除してしまうのです。
さて、この箇所には、安息日に、麦畑で起こったことと、会堂で起こったことが記されています。
まず、麦畑で起こったことは、弟子たちが穂を摘んで麦を食べたことで、パリサイ人がたしなめたのです。しかし、旧約聖書には「隣り人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい」(申命記23:25)とありますから、弟子たちのしたことはとがめられるものではありません。しかし、パリサイ人は、収穫と脱穀を行ったとして働いてはならないという安息日の規定に反するとしたのです。
これにたいして、イエス様は、ダビデのしたことを取り上げ、いのちをつなぐために(空腹を満たすために)とった出来事と比べて、弟子たちの取った行為を擁護しました。
次の記事は、会堂にいた右手の萎えた人の話です。イエス様のすることを怪訝に思い、良からぬ事をしはしないかと、見張っているパリサイ人たちがいました。イエス様は、この人を皆の前に出して、「安息日にして良いのは、善か悪か、癒やしか滅びか」と訊ねました。だれも答えないので、「手を伸ばしなさい」と言われました。すると、その人は、伸ばしたのです。そして、手は治りました。
このときは、イエス様のしたことが医療行為であって、安息日にはしてはならないと、パリサイ人がとがめたのでした。しかし、イエス様は善を行い、癒やしを行うのは、安息日にふさわしいと、反論しました。
本来、安息日は、礼拝の日です。神が創造のみわざを終えて、休まれた七日目に礼拝をするのです。これは、十戒の中に第四番目の戒めとして定められています。救われたから、この日を守るのです。この日を守ることによって、神に救っていただくのではありません。
当時は土曜日を安息日として守っていましたが、今は日曜日を安息日として守ります。それは、主イエス様が、復活した日だからです。イエス様が弟子たちに現れたのは、日曜日でした。私たちは、この日に集まって礼拝を守ります。それは、主イエス様を救い主と信じる者にとって重要なことです。感謝と献身の心を表す礼拝なのです。