聖日礼拝メモ 3月16日

聖書 ルカの福音書5章17節―26節

 先週は、ザアカイの回心の出来事から、主の愛とあわれみを考えました。今日も、主の愛とあわれみに焦点を当てたいと願っています。これは、主を知る上でとても大切なことだと思うからです。

 聖書の箇所はルカの福音書の5章、中風の人の出来事です。場面の中には、パリサイ人や律法学者も入っています。そして、主イエス様は、「主の御力によって」病気の人を治していました。そこへ、中風の人が運ばれてきたのです。

 担架のような床に載せて、四人の男たちが中風の人を連れて来ました。この四人は前にイエス様の恵みをいただいて、病気を治してもらった人たちでしょう.彼らは、この中風の人にイエス様のことを伝え、「どうだ、行ってみるか。お前も治してもらえるぞ」と励ましたことでしょう。

 さて、イエス様がいる家に着いたのですが、すでに人々でいっぱいで、床のままイエス様のところに連れて行くのはむずかしいと思い、彼らは階段を上がって、屋根の瓦をはがし、中風の人を吊り降ろそうとしました。それは大変神経と力を使う仕事でした。でも、彼らは、この人のために頑張ったのです。目的ははっきりしています。この中風の人の癒やしです。

 苦労した後で、彼らは中風の人をイエス様の前に吊り降ろしました。イエス様は、彼らの信仰を見て、「友よ、あなたの罪は赦された」と言われました。

 これを聞いて、むしゃくしゃした人たちが、学者やパリサイ人でした。「神以外の者が罪を赦すことはできない」として、イエス様を「神への冒涜を口にする」けしからぬ奴と思っていたのですが、イエス様はその心のことばを見抜いて、言われます。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』というのと、どちらが易しいか」と。考えてみると、どちらも普通の人間にはむずかしすぎることです。ダビデは「私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です」と告白しました(詩篇51:4)。神に対して罪があるのに、人間に赦す権威はありません。でも、罪の赦しは目に見えませんから、言葉だけなら簡単に言えますけれども、実際は分からないのです。

 そこで、イエス様は続けて言われます。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言って、中風の人に「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」と言われました。「すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った」のです。

 周りの人たちは、三つの反応を示しています。非常に驚いたこと、神をあがめたこと、そして恐れに満たされたことです。

 特に、恐れを抱いた人々のことばに「驚くべきことを見た」とあります。この「驚くべきこと」とは、原語のギリシア語では、パラドクサとなっています。ドクサは一般の意見という意味です。パラは、それに反することを指します。ですから、パラドクサは、一般の意見に反することが起こり、思いがけないとか驚くべきことと訳されます。

 ここで、いくつかの一般の意見に反することが起こったのです。まず、神だけが罪を赦せる方であるのに、ナザレのイエス、神の子イエス様が、赦しを宣言したことです。ふつうでは、あり得ないことをイエス様がなさったのです。

 さらにイエス様は、「人の子が地上で罪を赦す権威」があると、言われました。どうして「地上で」と言われたのでしょうか。それは、天の神が赦すことと対比されているのです。ソロモンが神殿を献納するときのお祈りを見ると、地上で献げられる祈りを「天でこれを聞き」願いをかなえてくださいとなっています。でも、イエス様は、地上で赦す権威を持っていると、ふつうでは考えられないことをなさったのです。まさに「驚くべきこと」なのです。

 そのイエス様は、ご自分を「人の子」と言われました。これは、終末に行われる最後の審判の時に、「人の子」がすべての主権と栄誉と国が与えられることを表しています。それが、今、目の前で審判がなされたのです。「あなたの罪は赦された」と。ここにも、一般の理解を越えた思いがけない、驚くべきことが起こったのです。

 さて、説教題は、「愛とあわれみの神」です。イエス様が罪を赦し、中風を癒やされたことの中に、まさに愛とあわれみが表されています。神様は罪人を愛するのですが、罪を憎みます。ですから、この中風の人の罪を除くことが第一になされます。

 罪が赦されるとは、神の前で行われる最後の審判で、罪を責められることがなく、御国に入ることができる恵みです。財産がどんなにあっても、最後の審判で滅びに定められるなら、全く哀しいことです。

 からだは癒やされても、やがて死にます。死んでさばきを受けるときの、赦しの経験ほどよい備えはありません。イエス様は、その赦しのために、ご自身が私たちの罪を負い、十字架で死なれたのです。その死が神様に受け入れられたので、復活したのです。この中風を癒やされた人が、神をあがめながら自分の家に帰って行ったことは、幸いなことです。すばらしことです。彼も、イエス様の十字架の死によって赦されたことを知った時、どんなに感謝したことでしょうか。

 愛とあわれみの神とは、イエス様に表された神の姿です。この方を心に迎え、感謝と喜びをもって生きていきましょう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ