聖日礼拝メモ 1月5日
聖書 ヨハネの福音書9章1節―12節
タイトル 「世の光イエスの恵み」
今朝のこの箇所は、生まれつき目の見えない人の癒しの記事です。この記事だけでもすばらしいメッセージを含んでいますが、この章全体を見ていきます。
苦しみがあるところには必ず原因があるとする因果応報の考えをくつがえす、イエス様のメッセージが語られています。この因果応報の考えは多くの人を苦しめています。ヨブ記のヨブも、三人の友人に苦しめられたのは、この考え方のためでした。しかし、ヨブは、神さまの主権を小さくした事に気づき、悔い改めました。そして、苦しみから解放されたのです。
この盲人も、通って行くいろいろな人の声を聞いてきたことでしょう。この日も、弟子たちのことばを耳にしました。「この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」とは、この盲人にとって聞きたくないことばだったのではないでしょうか。
主イエスの反応は、意外なものでした。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。…わたしが地にいる間は、わたしが世の光です」と言われました。盲人の心に暖かいものが生まれたことでしょう。慰めに満ちたことばだったでしょう。
イエス様は、つばでどろを作り、盲人の目に塗り、「シロアムの池に行って、洗いなさい」と言われました。盲人は、そこに望みをかけて、シロアムの池に行ったのです。そして、洗うと目が見えるようになりました。どんなに、喜んだことでしょう。
彼は家に帰りました。近所の人たちは、この人を見て、彼が物乞いをしていたあの人であると、分かりませんでした。彼は変わったのです。
近所の人たちは、彼をパリサイ人のもとに連れて行きました。彼らはこの人が見えるようになったことを信じません。親を呼び出したり、再び本人を呼び出したりしても、彼らは主イエスがこの人を癒やしたことを認めません。そして、このもと盲人が「神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きになります」と言うと(31節)、彼を追い出しました。
イエス様がこのことを聞きつけて、すぐに彼のもとにやって来ます。そして、「人の子を信じますか」と聞きます。その結果、「彼は、『主よ、信じます』と言って、イエスを礼拝した」(38節)のです。ペテロは自分が礼拝されそうになった時、「お立ちください。私も同じ人間です」と言って、拒みました(使徒10:26)が、イエス様はその礼拝を拒みませんでした。イエス様は神の御子なのです。
イエス様は、「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目になるためです:と言われました。すると、周りにいたパリサイ人は、「私たちも盲目なのですが」と聞きました。イエス様の答えは、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります」でした。
「目の見えない者」とは、自分が神の恵みを知らない、神と関係がないことで苦しみ、神を知りたいと願っている人です。そういう人は、神を知ることができるのです。しかし、自分は「見える」つまり、分かっていると、自負している人は、神が分からず、救いが遠いのです。心の目が開かれることは、すばらしいことです。