礼拝メモ 6月18日
聖書 使徒の働き15章1節−12節
先週お話しした、バルナバとパウロの伝道旅行から、次のステージに進みます。それが、15章のエルサレム会議です。
アンティオキア教会に、ユダヤから来たクリスチャンが「異邦人にも割礼を受けさせなければならない」と言い出したのです。パウロたちは、いくら論争をしても平行線になることを避けるために、エルサレムの使徒たちと話し合うために出かけたのです。
道々、出会ったクリスチャンたちに異邦人の救いを話すと、みな大喜びでした。でも、エルサレムの教会に来ると、パリサイ派だったクリスチャンが、割礼を受けさせろ、モーセの律法を守らせろ、と騒ぎ立てたのです。
そこで、会議が開かれました。いろいろな議論があった後、シモン・ペテロが、コルネリススに福音を伝えたことを土台に、信仰により、恵みによる救いであることを論じました。そして、最後にヤコブが、割礼はなくても良いが、偶像や不品行を避けるようにと、結論を出しました。その結論をもって、再び旅に出るところで、15章は終わっています。
どうして、割礼を受けなければならないと、主張するのでしょうか。パリサイ派の人たちは、自分の力で神の国に入ろうとする傾向が強い人々です。自分の努力を売り込もうとするのです。割礼もその一つの手段と考えられていたのでしょう。しかし、それでは神の国に入ることはできません。
このパリサイ派の人たちのやり方は、日本でも、別の形で存在します。さまざまな苦行を行って悟りを得ようとする人たち、念仏で仏になろうとする人たち、その根底に、人間の努力で悟りを得、仏になるという、人間中心の考え方があるのではないでしょうか。
ペテロのことばの最後にあった、「恵みによって救われる」という道は、何と幸いなことでしょう。
救いのために、神様は何をしてくださったでしょうか。
まず、救いの計画を立て、罪の処置をどうするか、考えてくださいました。罪は、人を神から引き離すものだからです。そのために、罪のない人が身代わりになることが必要と、考えられたのでしょう。でも、そんな人はいませんでした。アブラハムにしても、モーセにしても、ダビデのしても、パウロにしても、そんな身代わりを請け負うことはできませんでした。神の御子イエス様が人となって、身代わりとなる——その計画が実行されたのが、クリスマスであり、十字架だったのです。イエス様は、十字架の上で、「完了した」と言われたのでした。救いのための準備が整ったのです。
あとは、救い主となったイエス様にお頼りして、神の国の相続人にしていただき、永遠のいのちをいただき、神の子としていただくことです。そのために、聖霊が人々の心に働いて、福音を信じるように励ましておられるのです。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)。救いは感謝して受けるものなのです。ハレルヤ。