礼拝メモ 6月25日

聖書 使徒の働き16章16節−34節

 今回は、ピリピの町で起こった出来事の中から、いくつかのことを学んでみたいと思っています。

 この町の伝道は、三人の顕著な人々の救いで始まりました。紫布の商人リディア、占いの霊から解放された女奴隷の人、そして、ローマの看守です。教会とは、このようにいろいろな人が集まるところです。裕福な人、貧しい人、自営業の人、役人など、この三人を見ただけでも、教会がいろんな人の集まりであることが分かります。これが、神の集めた人たちなのです。

 ピリピの伝道は、エルサレムから始まった宣教のわざが、北へ、西へと広がっていったことの一部で、ヨーロッパ第一の宣教地でした。その後、福音は西回りに伝えられて来たように見えます。今、アジアがその担い手になろうとしています。

 次に心に残る出来事は、獄中の祈りと賛美です。パウロとシラスは、むちを打たれました。ユダヤでは40に一つ足りない数しか、むちを打ちません。40打つことは、その人を家畜扱いすることになるからです。でも、ローマの役人は、自分の気が済むまでむちを打たせます。この二人に対しても、何度むちを打たせたことでしょう。彼らの背中は傷だらけだったのです。そして、木の足かせをはめられました。二本の木にほぞが開いていて、そこに足首を固定するのです。場合によっては、又を広げたままで足かせに固定されます。そんな屈辱的な情況の中で、二人は祈り、賛美したのです。

 彼らの信仰は、燃えていました。神の愛を寸分も疑いませんでした。いつもと変わらずに心に留めてくださる神のあわれみを信じていました。すべてを益に変えることのできる方を信じていました。それは、「巡り歩いて良いわざを行った」主イエスが、十字架につけられたように(使徒10:38-40)、占いの霊のためにこき使われていた奴隷女を解放したための苦しみでした。

 パウロたちは、主の愛に感じて、祈りました。そして、それは賛美へと移っていったのです。他の囚人たちが、この珍しい出来事に耳を傾けていました。すると、地震が起こり、牢の戸が開いてしまいました。そこへ驚いた看守が飛んできました。囚人が逃げれば、その罰を自分が受けなければならないから、大変です。開いた戸を見た看守は、囚人が逃げてしまったと思い、自害するしかないと思ったのです。しかし、牢の奥から見ていたパウロは、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。そこで、看守は「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねたのです。パウロたちの答えは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」でした。福音の中心を語ったのです。

 この結果、「彼と彼の家にいる者全員に、主のことば」が語られたのです。そして、彼らは、主を信じました。主とは、預言された救い主、罪のない方が十字架に死に、三日目によみがえった方、この身代わりの死を信じて、神の子とされ、永遠のいのちをいただいたのです。彼らの喜びは、パウロたちの喜びでもありました。あなたも、主イエスを信じませんか。救いの喜びを味わってください。

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