礼拝メモ 7月9日
聖書 使徒の働き17章22節−34節
この17章は、テサロニケとベレアの伝道の様子が記されています。どちらでも、ユダヤ人の会堂で伝道し、ユダヤ人の迫害を受けています。そして、パウロは、一足先にアテネに来て、シラスとテモテが来るのを待っていました。
パウロがアテネを見て回ると、そこには偶像が満ちていました。アテネは哲学とともに芸術の町でした。宗教の盛んな町でもありました。そして、パウロは、会堂や広場でイエス様とその復活を語っていたのです。すると、アレオパゴスで説明してくれと言われ、この弁明の説教がなされたのです。
パウロはこの説教の中で、まず、「知られない神に」という祭壇があることを指摘し、真の神の説明に入ります。この「知られない神に」という言葉から、アテネの人たちは宗教に熱心でありながら、満足していなかったことが分かります。
パウロの第一の説明は、真の神は、天地の創造者であるということでした。ストア派の人たちは、神と万物は同一で、人間は小さな我を捨てて、宇宙の精神と一つにならなければならない、と主張していました。汎神論です。少し仏教や神道にも似ています。しかし、パウロの示したのは、真の神とこの世界とは、造り主と造られたものという関係であって、同一ではないことでした。自主自立の神はその知恵と力をもってこの世界を造られたのです。
第二に、真の神は自立している方で、足りないものはないし、人間に求めたりしないこと、かえって「いのちと息と万物」をくださった方であることを示しました。いのちは私たちの存在そのもの、息はそれが続くためにもの、万物は生活必需品でしょう。
第三に、真の神は、人間を平等な者として造られたことを語ります。アテネの人の自分たちは第一で、他は野蛮人という考え方に挑戦する考えです。そして、真の神は歴史を支配する方であることも、語りました。
次に、そのような真の神を「求める」ことが重要であることを示します。「神は一人ひとりから遠く離れてはいない」のですから、求めなさいと勧めます。どうして「知られない神に」という無知の状態になったのでしょうか。それは、求め方を間違えたからです。人間の手で造ったものを拝んでいるのがその証拠です。また、真剣に真の神を求めることをしなかったのも、「知られない神」を想像した理由です。
パウロは最後に、悔い改めましょう、と訴えます。神の示す道を通って真の神を求めましょう、ということです。もし、悔い改めて求めないなら、さばきが待っているのです。そのことは、「一人の方」、つまり救い主によってなされます。この方は、身代わりの死を遂げて、よみがえられた方です。架空の人でなく、歴史上の人物が救い主であり、さばき主なのです。
パウロの弁明を聞いて、ある人たちはあざ笑いました。肉体を悪と考える人たちには、復活は馬鹿げていたのです。またある人たちは、パウロの言葉に答えるのを先延ばしにしました。第三の人たちは、パウロに「つき従い」救い主のことをさらに求めて、「信仰に入った」のです。求めるなら与えられるのです。求めましょう。