礼拝メモ 7月24日

聖書 ヨハネの福音書15章1節-11節

 今朝の聖書の箇所は、ヨハネの福音書15章です。この出だしの言葉は、印象に残ります。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」イエス様がご自分をぶどうの木になぞらえています。これには、背景があります。一つは、旧約聖書です。もう一つは、最後の晩餐です。

 旧約聖書には、イスラエル人をぶどうの木にたとえることがしばしばなされました。詩篇80篇8―9節、「あなたは、エジプトから/ぶどうの木を引き抜き/異邦の民を追い出して/それを植えられました。その木のために/あなたが地を整えられたので/それは深く根を張り/地の全面に広がりました。」これは、エジプトから出て来たイスラエル人がカナンの地に根を下ろし、栄えて行った様子を描いています。

 ところが、エレミヤ書2章21節やイザヤ書5章1節以下では、そのイスラエルが「雑種のぶどう」となり、「酸いぶどう」となったことが責められています。

 これに対して、イエス様はご自分を「まことのぶどうの木」と言われます。良い実を結ばせるぶどうの木であると言うのです。その枝は、イエス様を信じる人たちのことです。彼らに実を結ばせるいのちを、イエス様は持っている方です。どういう実を結ぶのかは、この箇所からは、祈りの答え(7節)、愛(9節)、喜び(11節)が言われています。

 最後の晩餐で、このたとえが話されたことは、教会のことを考えておられたからです。「わたしを離れては」という言葉を、「教会を離れては」と読み替える人がいます。教会を離れる人は、火の消えたストーブのようだ、と言われます。みことばが心を燃やし続けるようにしないと、信仰が消えてしまいます。警戒しましょう。

 どうしたら、そのような実を結べるのかも、イエス様ははっきりと語っています。それは、ぶどうの木であるイエス様に「とどまる」ことです。絶えずイエス様のいのちの樹液を注いでいただくことです。イエス様を頼りにし、イエス様との交わりを密にすることです。

 そのようにして実を結ぶなら、小さな私たちも神の栄光のために生きられるのです。実を結ぶのは、命令ではありません。ただし、多くの実を結んだからと、得意になったり、自慢したりするのではありません。

あるドイツの牧師がナチスに反対していたら、戦線に送り出されてしまいました。そこで彼は捕虜になったのです。ところが、彼は、捕虜収容所で考えました。戦争が終わったら、福音を伝えなければならない、そのために、主のみことばを伝える人が必要だ、と。そして、献身者を募り、志願した若者たちを集めて、収容所の中で神学校を始めたのです。そして、収容所から解放されて祖国に帰った時、本部を訪ねて、収容所で神学校を作ったことを得意になって話しました。「わたしもいささか成功することができました」と。すると、これを聞いた指導者は、こう言いました。「若い兄弟よ。キリスト者に成功はありません。キリスト者は実を結ばせていただくだけです」と。イエス様のいのちと恵みが実を結ばせたのです。

 たtイエス様との交わりの結ぶ実は、私たちを謙虚にします。パウロは言いました。「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが」(Ⅰコリント15:10)。ぶどうの木イエス様の枝として、イエス様との交わりに生きる日々となりますように。

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