礼拝メモ 7月10日

聖書 ルカの福音書8章4節-15節

 イエス様は、かずかずのたとえ話を群衆や弟子たちに話しました。その中でも三つの福音書に書かれているたとえ話があります。それが、種蒔きのたとえ話と言われる、今朝の箇所です。さらにイエス様ご自身の解説がある珍しいたとえ話です。

 このたとえ話は、種を蒔く人が蒔いた種が落ちていった先を四つ並べて語ります。当時の蒔き方は、ばらまくようなものでしたので、道端から岩の上や茨の繁みに落ちる種があったのです。

 イエス様の解説では、「種は神のことばです」となっています。神様は、ご自身のことばを、たくさんの人に読んでもらいたいのです。ですから、種蒔きのように普通の書店にも聖書が並べられるのを喜ばれるのです。

 旧約聖書と新約聖書は、66巻、1189章、31,173節あると言われます。昔、一つの単語を抜かして印刷したために、回収された聖書がありました。正に、聖書の一カ所でも抜いてはならないのです。聖句の一つが人生を変えることは、よくあることです。(九州大学の病院に空気にふれられないという珍しい病気の人が、自分の人生をのろい、死にたいと思いました。新約聖書が贈られてきました。そこに「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます」とあった聖句に、しゃくに障って、聖書を放り出しました。しかし、胸底に響いてくるこの言葉に、もう一度聖書を取り上げて、初めから読みました。イエスという大工が、人のために苦労して、十字架にまでかかって死んだことが分かってきました。その方が、イエス・キリストであり、罪のない方であることが分かると、自分の罪のために死んでくださった十字架の愛がひしひしと感じられ、ついにイエス様を救い主として受け入れたのです。復活の希望も与えられ、「神は愛です。ほんとうです」と言って召されました。)

 道端に落ちた種のような人とは、この世のことを追い求めるだけの人です。聖書の言葉が入ってきても、無関心で、この世の魅力的なことを求めて、悪魔がみことばを取り去るのさえ知らないのです。

 人間の課題、問題が人の心を騒がせます。聖句がやって来て、喜んで受け入れます。しかし、自分の問題が解決すると、もう聖書はいらないのです。先週お話ししたツァラアトの癒された9人のように。

 道端のような心の人とは、世俗的な人、「俗っぽい人」のことと言えます。彼は人の意見を入れません。よくない意味でのいごっそうです。主のくださる愛も喜びも味わえません。頑なさは、イエス様によって砕かれるなら、教えられやすくなるでしょう。

 岩の上の心の人は、一時は熱心でも、根がないので、長続きしません。夢を追いかけていて現実性が乏しく、足が地に着いていないのです。しかし、キリストの愛に根を下ろせれば、変わります。あなたの愛は、相手の最善を願う愛ですか。最善の中で、たましいの救いほど大切なものはないのではありませんか。それを祈っています。

 茨の中に蒔かれた種のような心の人とは、思い煩いに捕らわれているか、お金のことばかり考えているか、快楽を追い求めているか、そのような人です。この世の物に気持ちが捕らわれているので、神のことばは育ちません。

 良い地に落ちた種の心の人は、心からみことばを慕って、読み、思い巡らし、主との交わりに入って行く人です。品性の実を(ガラテヤ5:22を参照)、祈りの答えという実を結べます。聖書から多くの実を結ぶ者となりたいですね。

カテゴリー: 礼拝メッセージ