礼拝メモ 6月26日

聖書 マルコの福音書10章46節ー52節

 ここには、バルティマイという盲人の出来事が記されています。この出来事は、イエス様の伝道生涯、3年の中でも終わりに近いころの出来事です。その間、イエス様は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ、デカポリス、シリアなど、伝道して回りました。その教えとみわざの数々が人々の間で語り伝えられていたのです。

 さて、そのバルティマイですが、彼は目が見えないために物乞いをして生きていました。エリコの道端に座って、物乞いをしながら、人々の言うイエス様のなさったことを聞きながら、ナザレのイエスのすばらしさに心が捕らえられていったのです。そして、いつか彼はこの方に期待をし始めます。この方は、ツァラアトの人を癒し、中風の人も直し、悪霊を追い出した方、死人さえ生き返らせた方、ああ、自分の目を開けてもらえないだろうか。その期待は、だんだんとふくらんで、信仰にまで育っていきます。その方にお願いするなら、きっと見えるようになるに違いないと。

 そのバルティマイに、イエス様がエリコにやって来たという言葉が届いたとき、彼はこの千載一遇の機会を逃してはならないと、声を張り上げたのです。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください。」

 バルティマイにとって、ダビデの子とは救い主のことです。これが人々の言葉からバルティマイが出した結論でした。そして、今、その方がエリコにやって来たのですから、どんなに止められても黙るわけにはいきません。ますます大声で「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫びました。バルティマイは、救い主のあわれみにすがったのです。心を動かしてほしかったのです。

 イエス様の足が止まりました。そして、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。何人かの人が、バルティマイに声をかけ、「安心しなさい。あの方が呼んでおられるよ。さあ、立ち上がって、あの方のところに行きなさい」と言ってくれました。バルティマイは大喜びで立ち上がり、それと思う方にやって来ました。目の見えないバルティマイがイエス様にぶつかりそうになったかもしれません。とにかく、うれしいことに、イエス様が自分の声に、言葉に反応してくださったのです。

 イエス様の言葉は、「わたしに何をしてほいいのですか」でした。バルティマイはすぐに「目が見えるようにしてください」と言いました。すると、イエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」と言われました。すぐに、バルティマイの目が開かれて見えるようになりました。そして、彼は神様をたたえながらイエス様について行ったのです。

 前々週の12年の間、長血を患っていた女の人も、「罪深い女」と思われていた女性も、バルティマイも「あなたの信仰が救った」と言われました。イエス様があわれみ深い方であり、御力をあらわすことの出来る方であると信じて、自分の重荷をイエス様に持って行った信仰を、イエス様は認めておられるのです。そして、願いのとおりに重荷を取り除き、救ってくださったのです。

 「何をしてほしいのですか」と問われて、すぐに答えられるように、問題の中心、自分の重荷について考えておくことは大切です。

 また、「行きなさい」とは、この三人に言われた言葉です。どこに行くのでしょうか。それは、イエスを救い主と信じる人たちのところ、今の教会をさしています。そこで、自分の信仰がしっかりとしたものとなり、他の人の信仰から学んで成長するためです。イエス様の配慮は行き届いています。イエス様、ありがとう。

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