礼拝メモ 6月12日

聖書 マルコの福音書5章25節-34節

 ペンテコステの朝、聖霊が降って、弟子たちは御霊に満たされ、新しい人となって証しをし始めました。コルネリウスたちに聖霊が降ったことも、彼らを新しい人に変えた出来事でした。この恵みにあずかる人は、信仰を持った人たちでした。信仰にはいろいろな面があります。今朝は、十二年の病苦からの救いを経験した人を取り上げてみます。

 「十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。」この人の話です。その病気のために財産を使い果たし、なお苦しんでいました。ただ、神を仰いでいたことでしょう。その人の心に一条の光が差してきたのは、ナザレのイエスのことでした。

 「彼女はイエスのことを聞き」(27節)と記されています。この病気の人は、人中に出て行かれない、汚れを持っていると考えられていました。そのため、彼女は、人々のうわさを聞きながら、ナザレのイエスの教えやみわざを知っていったのです。たとえば、悪霊を追い出し、ツァラアトを癒し、中風の人を癒したことなどと、種蒔きのたとえ話などを知ったことでしょう。

 そして、自分の病苦から脱出できるのは、この方に頼る以外にない、と考えたのです。「この方の衣にでも触れれば、私は救われる」という信仰が生まれました(28節)。その信仰を活かす時がやって来ました。ナザレのイエスが自分の町にやって来て、ヤイロの家に向かっていると、聞いたのです。彼女はたぶん待ち伏せをするようにして、群衆に交じり、そっと近づき、イエスの衣のすそに触ったのです(すそには房が着いていますので、マタイもルカも、房に触ったと言っています)。

 「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた」(29節)。このまま、イエスの一行が進んで行けば、私は治った身体で生きられる、と思ったかもしれません。しかし、イエスは足を止め、周りを見回して、「だれがわたしに触ったのか」と問いました。女性は、叱られるかと恐れましたが、ひれ伏して自分の経験の一部始終を話しました。イエス様は、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい』と優しく声を掛けてくださいました。

 イエス様が言われた「あなたの信仰」とはどのようなものだったのでしょう。普通、信仰は神のことばに立つものと言われますが、ここではそのようなものは見えません。この女性にとっては、「イエスのことを聞いて」という噂や、ちまたの声が伝えるイエス様の姿が、信仰の出発点になったと考えられます。「イエスのこと」の中には、イエス様のなさった奇跡、それもあわれみに満ちた奇跡、そして、数々の教え(たとえば、たとえ話)が含まれていたことでしょう。

 しかし、このようなことは他の人たちも聞いていたことでしょう。この女性は、自分の病気が人間の手では治せない事を知り、神様に祈っていたところにイエス様の事を聞いたのです。自分の問題とイエス様を結び付けたのです。信仰とは、何でも信じれば良いのではなく、イエス様の人柄、人格の中に知恵と力と愛を見出すのです。「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とパウロは言いました(ローマ10:10)。彼女は、イエス様の、そしてみなの前で一部始終を語って、信仰の告白をしました。それによって、この人の信仰はイエス様としっかりと結ばれたのです。イエス様との交わりに入れたのです。イエス様の事を知りましたか。あなたの課題を結び付けましたか。信頼し続けましょう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ