礼拝メモ 5月8日

聖書 使徒の働き9章1節-19節前半

 五月の第二聖日は母の日です。かつて教会学校でイエス様を教えてくれた母を偲んで、カーネーションを持って来た姉妹のことが、ある人の目にとまり、多くの人に訴えることになった、と聞いています。

 さて、今朝は、先週お話ししたステパノの殉教の場面に何気なく登場するサウロについて考えます。

 ステパノの死とともに激しい迫害が始まりました。その中心にサウロがいました。彼は、ステパノの弁明を聞いて、「はらわたが煮え返る」思いだったのでしょう。その理由は二つあります。

 一つは、律法を守ってきた自分を守っていないと非難されたからです。サウロは、後にこう書き記しています。「律法による義については非難されるところがない者でした」と(ピリピ3:6)。もう一つは、「木につるされた者は神にのろわれた者」という申命記の言葉から、ナザレのイエスが救い主であるわけがない、と考えていたのです。それで、「この道の者」(2節)つまりクリスチャンを迫害したのです。

 その迫害の激しさは、エルサレムだけでなく、北方のダマスコにまで出向いていって、「男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いてくる」ほどでした。

 しかし、「ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした」のです(3節)。サウロは地面に倒れてしまいます。すると、天から声が響きます。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と(4節)。この天からの声に、サウロはうろたえています。「主よ、あなたはどなたですか」との問いに、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えを聞いて、サウロの心の中は混乱しました。

 自分が神のみこころと思って迫害してきたのに、事もあろうに、自分が迫害していたのはあのナザレのイエスであったとは。十字架につけられ、のろわれた存在のイエスが、天から、自分を迫害するのはなぜかと問い詰めている。自分はどうしたらよいのだ。それでは、神のメシアを自分は迫害していたのか。だとしたら、自分はどうなるのだ。(彼は密かに死を覚悟したかもしれません)

 目が見えず、心は動転しているサウロは、手を引かれてダマスコの町に入ります。三日間、食べることも飲むこともできない、悶々とした日を送っていました。そこに、助けが与えられます。アナニアです(10節以下)。主イエスの言葉に答えて、アナニアはサウロを訪ね、手を置いて祈ります。「兄弟サウロ」という呼びかけは、サウロの心にどんなに慰めとなったことでしょうか。彼は、目が開き、バプテスマを受け、食事をして元気になりました。

 サウロは、律法に従った生活が、縛られていた生活であったことを自覚したのです。そして、律法から解放され、自由を与えられました。あの「のろい」の問題も、身代わりの呪いであると理解しました(ガラテヤ3:13を参照)。

 このサウロの回心の記事では、イエス様が迫害されていたと言われています。十字架上で死なれたイエス様は生きておられること、また、イエス様と教会が一体であることを示しています。イエス様は、苦しんでいるクリスチャンたちを知っておられるだけでなく、ともに苦しんでおられます。様々な問題を抱える現在の教会のためにも、主はともに悩んでくださるのです。あきらめずに、祈りつづけましょう。コロナウイルスの感染が収まったなら、何をしたいと思っていますか。それはイエス様の願いと一致しますか。主が導いてくださるのを祈っていきましょう。

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