礼拝メモ 5月1日

聖書 使徒の働き7章51節-60節

 イースターを越えて、イエス様はその後どうなさっているのでしょうか。使徒の働き7章から、考えてみましょう。

 この章は、ステパノの最高法廷での弁明の言葉で、ほとんどが埋められています。今朝はその最後の部分を読んでいただきました。

 ステパノは何を弁明していたのでしょうか。彼は、律法に逆らっていると言われました。それで、ステパノは、ユダヤ人が神から遣わされた使者を拒絶してきたことと、神が遣わされた救い主を裏切り、殺してしまったことを非難しました。律法に逆らっているのはステパノでなく、ユダヤ人だと言ったのです。

 人々の反応は、「はらわたが煮え返る思い」でステパノに怒り、憎んだのです。 

 ステパノが天を見上げていると、天が開けて、「神の栄光と神の右に立っておられるイエスを」見たのでした。これは、ステパノにとって意外だったのではないでしょうか。思わず「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言ってしまったのではないでしょうか。

 ただ、この時、イエス様のことを「人の子」と呼んだのはどういう意味があるのでしょうか。「人の子」というイエス様の称号は、イエス様ご自身が使っておられたので、他の人は使っていません。それを、この時、ステパノが使ったことは、何か意味があると言えます。

 まず、イエス様が苦しみを経て栄光に至った方であることを示しています(ルカ9:22)。また、イエス様を人々の前で救い主と認めて告白する者を、イエス様も認めてくださるという約束があるからです(ルカ12:8)。ステパノは最高法廷ではっきりとイエス様のことを語ったのですから、「人の子」であるイエス様が認めてくださると確信できます。

 そして、天の神の右の座に座っていることがイエス様のふつうの姿であるのに、ここでは立っています。これは、ステパノの弁明を擁護している姿であり、天にステパノを迎え入れる用意があることを示している姿でもあります。

 イエス様は、十字架で死なれ、三日目によみがえられた方、弟子たちに現れた方、天に帰られた方、今も生きておられる方、そして取りなしておられる方なのです。ステパノはこの方に愛され、味方され、守られていたのです。

 最後に、ステパノの残した言葉を考えましょう。

 「主イエスよ、私の霊をお受けください。」イエス様は、十字架の上で最後に語られたのは、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」でした(ルカ23:46)。自分の霊を渡すという意味では、同じような内容です。しかし、イエス様は「父よ」と言って御父に渡しています。ステパノは「主イエスよ」と言ってイエス様に渡しています。ステパノにとっては、イエス様は永遠の神の御子なのです。ですから、この方に霊を渡したのです。

 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」イエス様は十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と祈られました。ステパノも、彼らの赦しを祈っています。何という愛でしょうか。イエス様の愛が、ステパノの心にとけ込んでいます。55節で「聖霊に満たされ」と書かれているステパノだから、このような恵みを表しているのです。私たちも、聖霊によって、イエス様に似た者となれるのです。すばらしいことです。

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