礼拝メモ 4月17日

聖書 ヨハネの福音書21章1節-14節

 現代は、悲しい出来事や事件や戦争のニュースが飛び交っています。この時代だからこそ、救い主の御名をたたえたいのです。イースターの朝です。イエス・キリスト様が、十字架に死なれ、葬られ、三日目によみがえったことは、私たちの救いの土台です。パウロは、「最も大切なこととして伝えた」と言い、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです」と書いています(Ⅱコリント15:3−5)。福音の中心に、イエス様の復活があるのです。

 復活したイエス様を思うと、早くお会いしたい気持ちになります。憧れの気持ちです。そして、このような憧れは、神様が働いておられるので生まれます。そのことは、アウグスティヌスやC・S・ルイス、フィリップ・ヤンシーなども同様に書いています。

 この、ヨハネの福音書21章は、希望を失った弟子たちの暗い姿が描かれています。シモン・ペテロが「私は漁に行く」と言ったとき、人間をとる漁師になるのだと言われたイエス様の言葉を信じることができなくなっていました。そして、もとの漁師に戻って生きたらどうだろう、と考えていたようです。仲間たちも多かれ少なかれ、同じ気持ちでした。そして、一晩中網を下ろしても、何も取れませんでした。

 がっかりして帰って来た弟子たちに、岸から声をかけた人がいました。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」と。「ありません」と答えた弟子たちは、ふてくされた声だったでしょうか。すると、岸の人は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れます」と言いました。分からないまま、弟子たちは一縷の望みをかけて網を打ちます。

 その時、網は魚でいっぱいになりました。これは、三年ほど前、ペテロの舟で起こったことに類似していました。ヨハネが「あれは、イエス様、主ですよ」と声を張り上げました。

 よみがえられたイエス様が弟子たちのもとに来られたのです。

 弟子たちは、イエス様が捕らえられた時、みな逃げ出したのです。ですから、イエス様に会わせる顔がないと、自分を責めていたことでしょう。後ろめたさを持ちながらの漁だったと思われます。それが、イエス様の方からやって来てくださったのです。それも、弟子たちを何も責めませんでした。いつものイエス様でした。

 パンと魚は、あの5000人の給食の時と同じでした。愛に満ち、心づかいをしてくださるイエス様がそこにおられました。弟子たちは、はじめは恥ずかしさがあったかもしれませんが、だんだんに笑顔になっていきました。イエス様は、やり直しをさせてくださる方なのです。

 私たちも、失敗したり、自分を責めたりすることがあります。しかし、イエス様は、私たちのところにやって来て、立ち上がらせてくださるのです。それは、よみがえられたイエス様のもたらす祝福なのです。この方とともに歩むことができるのは、なんという幸いでしょうか。平安があるようにと、おっしゃったイエス様は、まさに平安をもたらしてくださる救い主です。心を開いて、イエス様とお交わりをさせていただきましょう。

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