礼拝メモ 4月10日
聖書 ルカの福音書21章1節-14節
今日はパーム・サンデーです。イエス様がエルサレムにろばの背に乗って入城した記念の日です。人々は棕櫚の枝を地面に敷いて迎えたのでした。この日から受難週が始まります。来週は、イースター、主の復活を祝う聖日になります。
今朝は、イエス様がエルサレムでの死に向かって歩んでおられたことを考えます。聖書は、主の姿が変わった山の出来事を記した、ルカの福音書9章です。ここから三つのことを考えます。
29節。「祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。」32節には、「イエスの栄光…が見えた」となっています。お祈りの中にこのように変化が起こったのでした。そして、少し前のところには、「自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき」があることを話しています(26節)。この栄光のお姿は、再臨の時のイエス様の栄光をほんの少しだけ、弟子たちに見せているように見えます。
この出来事は、イエス様に罪がないことを表しています。また、35節で、雲の中からの声に「これはわたしの選んだ子」とあるように、神の御子であることが表されています。罪のない方、神の御子である方が、栄光の姿で話をしていました。イエス様は、このまま、天にお帰りになることのできる方なのです。
二番目に考えておきたいことは、二人の人が現れて、イエス様と話をしていたことです。30節。「そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。」
モーセとは、イスラエル人をエジプトの奴隷の苦しみから救い出した人物です。シナイ山で、律法を受けて、人々に伝えた人です。出エジプトの出来事が書かれた「出エジプト記」はエクソドスと言われます。このところで、「最期」と言われている原語は、エクソドスなのです。もともと、この言葉は「出て行くこと」、出発を表すものです。それが、エジプトから出て行くエクソドスとなり、この世から出て行く死を意味するようになりました。イエス様にとっては、単にこの世から出ていくだけでなく、人々の救いのために出て行くこと、十字架から復活、昇天までがこの最期、エクソドスになります。
エリヤは、当時の偶像崇拝、バアル神を拝む人々を真の神ヤアウェ礼拝に引き戻すという大きな使命を果たした人物です。450人のバアルの祭司たちと対決し、見事に勝利した後、イゼベルの脅しに恐れを感じて、ホレブの山にまで逃げていき、そこで新しい使命を受けた人物です。モーセはイスラエル人をエジプトから救い出し、エリヤは偶像礼拝から救い出し、イエス様は人類を罪から救い出すのです。
イエス様はどうして、山を下りていったのでしょうか。山の下には、悪霊に苦しめられている人があり、弟子たちの霊的な盲目もあり、人間の自分中心な生き方がありました。それの解決のために、私たちの救いのために、山を下りて行かれたのです。
それは、父なる神様とイエス様の間で交わされた愛の交わりから起こったことでした。どうしようもない人間の救いのために、心を痛め、なんとかご自身との交わりに回復するための十字架でした。「ああ、不信仰な曲がった時代だ」というイエス様の嘆きの言葉を、私たちは忘れてはならないと思います。愛の神様のみこころが分かり、不信仰を捨て、真実に主にお頼りして歩みたいものです。イエス様、ありがとう。あなたのお苦しみで、私たちを救ってくださる御愛をありがとう。