礼拝メモ 3月27日

聖書 ヘブル人への手紙11章8節-19節

 先週は創世記からノアの信仰を考えました。今朝は、ヘブル人への手紙に戻り、アブラハムの信仰を考えます。この手紙を書いた人は、いくつかの点でアブラハムの信仰を捉えています。ここでは、三つの点にしぼって考えます。

 まず、8節を見ましょう。「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」

 この言葉には、新しい地に踏み出す信仰が表されています。アブラハムの暮らしてきたウルという町は、月を礼拝する土地でした。しかし、彼は天と地を創造した神をこそ礼拝することに目覚めた人です。天の神に声をかけられたことは、すばらしいことです。私たちの中にも、先祖伝来の教えを離れてクリスチャンになった方もおられます。天と地を造られ、歴史を支配している大いなる神様の真実な約束に信頼することがすばらしいことです。

 「どこに行くのかを知らずに」従ったアブラハムの神に対する信頼は、大きかった。そして、一歩一歩歩んで、ある地点に来たときに、主なる神様が「この地をあなたとあなたの子孫に与える」と約束してくださったのです。そこは、乳と蜜の流れる地と言われる肥沃な土地です。

 次に、「子孫」の問題が出て来ます。アブラハムは神様から声をかけられたとき、75歳でした。そして、子どもがいませんでした。「あなたの子孫にカナンの地を与える」と約束されても、子どもがいないのでは成り立ちません。99歳になったとき、神様は、アブラハムに来年、子どもが生まれる、と約束されました。アブラハムにとって、信仰の戦いでした。どうしてこんな高齢の者たちに子どもが産めるか、彼は、神様の約束を信じる以外にありませんでした。ローマ人への手紙4章にも、このアブラハムの信仰について書かれています。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じ」たこと、「彼はおよそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められ、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」

 神様は約束したことを決して曲げることはありません。そこに真実を見たのです。そして、実行する力が神様にはあるのです。信仰によって、子どもを得たアブラハムには、「天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれた」のでした。

 第三の問題は、神様の言葉による試みです。神様がくださった愛する子、イサクを献げるように、と言われたのです。これでは、子孫に与えられるという相続の問題はどうなるでしょうか。アブラハムの信仰の戦いがあったことです。彼は、ささげた後、神様が子どもをよみがえらせてくださると信じたのです。彼の心の中に、復活の信仰が生まれました。すさまじい信仰の戦いでしたが、主は良きにしてくださいました。神様は、アブラハムに子どもを殺さずに返してくださったのです。

 アブラハムの信仰は、神様が真実であること、また全能であることにかかっていました。私たちも、同じ神様を信じています。救われる人、伝道者に召される人、献身する人が起こされるように、教団をあげて祈っていきます。私たちも祈りに参加しましょう。

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