礼拝メモ 3月6日
聖書 ヘブル人への手紙10章32節-11章3節
今月は信仰について学んでみましょう。聖書で言う信仰と日本人が考える信仰にはどんな相違があるのでしょうか。そんなことも分かると良いです。
ヘブル人への手紙は、クリスチャンになったヘブル人が信仰を離れていかないで、かえって成熟に進むように勧める手紙です。
この段落には、苦難にあっている人たちが書かれています。「嘲られ」「見せ物にされ」「牢につながれ」「財産を奪われ」などと記されています。迫害を受けている様子です。その中で信仰を失うことなく、かえって信仰に満たされて生きてほしいと、著者は願って書いています。私たちは、そのような迫害を受けていなくても、コロナウイルスに囲まれ、物価の高騰の中にあります。耐え忍んでいかなければならない点は、同じです。
著者は、忍耐と信仰を結びつけています。そのために、ハバクク書から引用しています。
もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅れることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。
もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。
ここにある「来るべき方」とは、救い主のことです。ハバククにとっては、バビロニアからの救い手です。私たちにとっては、イエス様の再臨を待つ信仰を励ましていると、取ることができます。いずれにしても、この場合の信仰は、神のことば、約束によって生まれるものです。神様の語りかけは、まだ現実のものになっていませんでしたが、神の言葉であるゆえに信頼できるのです。
11章1節には、「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。「望んでいる」のは、神の語り掛けがあったからです。つまり、み言葉によって希望を保証されているので信じることができ、み言葉の目には見えないものが現実になると信じることができるのです。
2節で、「昔の人たち」と言われています。この後、次々と名前を上げて、信仰の先達たちを紹介してゆくのです。それは、来週からの学びになります。
3節には、天地創造のことが語られています。これは、人間には全く分からないことです。人間は造られたものなのですから。ただ、神様が「初めに神が天と地を創造した」と語ってくださったことを根拠にして信じられるのです。
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」神のことばに込められた力と英知に圧倒されます。何もないところに、法則にのっとり、物質を創り上げる方です。この方が「わたしはこうする」と約束してくださったら、その通りになると決まっているのです。それが実現する前に、私たちはそのことば、約束に立って、その実現を信じて行動することができるのです。
ですから、神様の語りかけを聞き間違えないようにしなければなりません。聖書は、神の意図は愛に始まっていると語っています。天地の創造も、神様の愛の結果でした。神様は忍耐深く、人間にそのことを信じてほしいと働き続けています。ですから、聖書のことばを、今も神様が語りかけている言葉として読み、聞くことが大切です。主イエス様が救い主として犠牲を払い、恵みを届けてくださるのですから、信じ、信頼していけます。感謝します。