礼拝メモ 2月13日

聖書 ルカの福音書12章22節-32節

 今朝は先週の続きの箇所です。先週の箇所は、財産の分配を願った人の話しで始まり、愚かな金持ちのたとえ話が続きました。それは、願い出た人を囲む人々に語られたものでした。イエス様の弟子たちは、相続する財産などあまりない人たちだったでしょう。その代わり、心配はしていたのです。そこで、この箇所は、弟子たちに心配を止めるように勧めました。

 まず、いのちとからだの大切な事を語り(22、23節)、それは、神様が心に留めておられることを思い出させます。そして、「烏」のことを引いて、弟子たちがどんなに大きな価値ある存在であるかを示しました(24節)。烏は旧約聖書では汚れた鳥として扱われています(レビ記11:15)。その烏を養っておられる神様が、大事な弟子たちを見捨てるはずがありません。ですから、心配は、人間の尊さを忘れるところに生まれるのです。

 次に、イエス様が指摘したのは、心配はいのちを延ばすことができない、ということです(25、26節)。つまり、心配は無力だというのです。そんな無力な心配をし続けることは、父なる神様を悲しませることなのです。

 さらに野の草花に目を向けさせます(27、28節)。パレスチナでは、草を引いておけば、焚き付けに使えます。でも、その草花に、神様がどんなにすばらしい装いを与えておられるかを示します。それは、あの栄華を極めたソロモンさえ及ばないものだと語られます。それほどに、焚き付けになる草にさえ、心を用いておられる神様が、弟子たちに心を用いないはずがありません。それを心配するのは、無益なことです。

 「これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです」(30節)と言われた言葉は、心配をするのは、異邦人のようなものだ、ということです。ここでいう異邦人とは、異教徒の意味で、天地を創造された主なる神様を知らない人たちのことです。その意味で、心配は異教的なことなのです。やめなければなりません。

 「これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます」(30節)という言葉からは、心配するのは親不孝なことだと示されます。父なる神様が弟子たちのことを心にかけておられるのに、弟子たちが心配して仕事に心が伴わなくなるとしたら、父なる神様は悲しまれます。

 ですから、神様を信じるなら、神様の大船に乗っている気持ちで、任せて生きていけばいいのです。イエス様は、「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい」と勧めるわけです(31節)。地上のことよりも、天の御国で価値のあることを考え、求めてゆくのです。主なる神様の大きな愛の配慮を信じ、神様に人生をあずけて、喜んで生きていきましょう、とイエス様が弟子たちに教えたのです。これが、心配のない生き方のコツです。

 大切なのは、目をどこにつけて生きてゆくかなのです。天と地、私たちのために心配して配慮してくださる父なる神様とこの世の心配と、どちらに心を向けて生きてゆくかです。仏教では、この世は無常でむなしいのだから、心配を捨てなさい、と教えているのでしょう。イエス様は、天におられる父なる神様の愛に信頼して、心配を捨てなさいと、教えているのです。

 そして、イエス様が教えられたように、「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)ことを心にして与える人生を築くことです。それは愛の人生です。身近な人から遠くの人まで、愛して与える人生を築こうではありませんか。

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