礼拝メモ 2月6日
聖書 ルカの福音書12章13節-21節
この箇所は、「愚かな金持ちのたとえ」という小見出しがついていることがあります。しかし、初めの部分は、遺産相続の調停を頼みに来た人の話しです。この人の頼みを聞いたイエス様は、「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人が有り余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです」と答えて、この人に大切なことは何かを教えるたとえ話をしました。それが、愚かな金持ちの話しです。
「ある金持ちの畑が豊作であった」と話し始めます。これは、この金持ちが勤勉に働いた結果でしょう。すばらしいことです。そして、彼の心の声を、イエス様は言い表します。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産をすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいに、こう言おう。『わがたましいよ、これから何年分もいっぱい物がためられた。さあ、休め、食べて、飲んで、楽しめ』と。」
この言葉は、一面、まっとうな言葉に見えます。旧約聖書にも、「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる」という言葉もあります(伝道者の書9:7。同5:19を参照)。ですから、この金持ちが特別に悪いことをしているようには見えません。
しかし、イエス様のたとえ話の続きは、全然違う雰囲気の言葉です。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」
この金持ちが勤勉に働いて豊作になったことは間違いないでしょう。それが、どうして「愚か者」と呼ばれなければならないのでしょうか。金持ちの言葉に注目してみましょう。ここには、「私」という言葉は何度も出てきます。自分のことしか考えないところがあります。
財産はためこむもの、自分の楽しみのために使うもの、それでたましいも満足するものと、考えていたことがわかります。「自分の富に拠り頼むものは倒れ、正しい人は若葉のように芽を出す」という言葉もあります(箴言11:28)。
そして、神の言葉として、「おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」と問いかけています。「ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事をあたえられる」とも記されています(伝道者の書2:26)。この金持ちは、自分の作物は自分の思うままになると考えていましたが、そうではないのです。
今ひとつ、大切なことを、この金持ちは忘れています。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」(詩篇127:1−2)。金持ちは新しい倉を建てようとしていました。しかし、それが主の御心であるかを尋ねませんでした。彼が豊作だったのは、神の思いが豊作をもたらしたのですが、彼は、神に感謝を捧げませんでした。
この金持ちは、自分のたましいを多くの「物」で満足させようとしています。そして、死の備えをしていません。そして、この金持ちは、周りの人たちへの関心も配慮もしていません。ですから、「愚か者」と呼ばれてしまったのです。
賢い人の生き方は、神の恵みに感謝し、周りの人を愛して生きることです。そこに喜びがわいてきます。愛を増し加えていただきましょう。