礼拝メモ 1月30日
聖書 使徒の働き4章23節-35節
教会総会を前に、二週にまたがって、礼拝する民の集まりと祈りの群れを考えてきました。今朝は総会がありますので、短く、第三のポイントとして心を一つにすることを考えてみましょう。
使徒の働きの3章は、「美しの門」の脇に置かれた、生まれつき足の不自由な人が癒やされた記事で始まります。それは、ペテロとヨハネをとおしてなされた奇跡でした。癒やされた人がペテロたちにつきまとっていたため、多くの人が集まりました。そこで、ペテロがこの奇跡の源である主イエスの復活について話した時、神殿の守衛をしている人や祭司階級の人たちが二人を捕らえてしまいました。
二人を取り調べることになった時、ペテロははっきりとイエス・キリストを証ししました。民の指導者たちは二人を脅して釈放しました。
釈放された二人が、仲間のところに行き、祭司長たちの言葉を報告し、みなで心を一つにして祈りました。祈りの中で、まず天地を創造した主に呼びかけ、イエス様を証ししたために迫害があったこと、そして、三つの願いを祈りました。その三つの願いとは、みことばを大胆に語らせてください、癒しとしるしと不思議を行わせてくださいというものでした。第一の祈りは、すぐに答えられました。第二の癒しも第三のしるしと不思議もそのあとに続きました。み言葉を語るときに、み言葉の真実が証しされるのがしるしと不思議であり、癒しのわざでした(マルコ16:20を参照)。
福音を伝えるのは、宣教の大命令のゆえでもありますが、救いをいただいたゆえでもあります。救いは神の愛から生まれ、キリストの十字架の贖いによって与えられたものです。ですから、福音を伝えるのは、その愛に応えるためでもあります。
弟子たちが愛されて救われたことに答えるために、愛を持って生きてゆこうとしました。そこに生まれたのが、共有という出来事でした。それは自発的な愛のわざでした。使徒の働きの5章を見ると、愛のとぼしいささげ物によって、アナニアとサッピラがさばかれて死んでいます。金で人から褒められることを求めることの虚しさが表されています。
キリストの恵みによって生きることは、最も大切なことです。ですから、主の愛を受けた者として愛に生きるのです。主と周りの人のために愛をもって生きてゆきましょう。それは、心をひとつにする奉仕です。
奉仕も、その愛のわざの中に入ります。この教会では、いろいろな奉仕がなされてきました。集会に参加するのは自分のためだけでなく、奉仕でもあります。司会をする、受付をする、奏楽をする、お祈りをする、出席者の名前を記録する、献金をする、会堂や近辺の掃除をする、送り迎えをする、タオルを洗う、草引きをする、イルミネーションを飾る、パソコンの打ち込みをする、家庭集会をする、福音版やチラシを配る、訪問をする、証し集や総会資料の製本を手伝う、クリスマスのお菓子の詰め合わせをする、コイン献金を数える、福音版に教会の判を押す、写真を撮るなど、それぞれが自発的にしたり、頼まれてしたり、主の愛に答える奉仕です。
救い主の愛に応えてのこれらの奉仕は、主のからだである教会の成長のためになくてならないものです。主からの報酬は、天においていただけます。イエス様がいのちをかけて救いの道を切り開いてくださったのですから、当たり前のことをしているのに、天においての報いまで用意されているとは、何という幸いでしょう。