礼拝メモ 1月23日
聖書 ルカの福音書11章1節-13節
ルカの福音書11章の始めは、祈りについての勧めが記されています。冒頭には、イエス様が祈っていたことが記されています。そのイエス様の祈りの姿から、弟子たちは「私たちにも祈りを教えてください」と願います。そこでイエス様は、祈りについて語り出します。
その内容を見る前に、イエス様が祈り姿は何を表していたか、考えてみましょう。神の御子であるイエス様には、父なる神様から次々とみ心が届けられていました。ですから、祈りは願いというよりも交わり、会話だったのではないでしょうか。
しかし、時にイエス様も願いを持ち出されました。ゲッセマネの園での祈りです。人間イエスとして、御子イエスとして、願わざるをえなかったと考えられます。同じように、私たちも、祈りことを躊躇することはないのです。
さて、イエス様の祈りの勧めですが、まず「祈るときにはこう言いなさい」と言って、いわゆる主の祈りをお教えになりました。この祈りには二つの点で注目しておきましょう。
一つは、祈り始めるにあたり、まず主なる神様を賛美し、たたえるということです。イエス様は「御名」と「御国」を挙げています。神様のご性質と支配を讃えるのです。使徒信条でも、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」とあります。造り主とは、みわざの最たる(第一の)ものです。「全能」も「父」であることも、神の性質です。このように、まず、神様をたたえることから祈り始めます。
神様のみわざの中で一番私たちに身近に覚えることは、イエス様の十字架です。イエス様の十字架によって救われ、その復活によって生かされているのです。お祈りの始めにこのことを感謝し、そのみわざの源である神様の愛をほめ称えるのです。
次に自分のことを祈るのですが、ここに「私たち」という言葉が何度も出てきます。日毎の糧については、次のたとえ話でさらに深く語ります。
「私たち」とあることは、この祈りが個人の祈りであるよりも、教会の祈りであることを示されます。ここに、分かち合いと赦し合いが、そしてつまずきにならないように心がけることが含まれています。
次にパンを貸してほしいという人の話しが続きます。これは、自分のためでなく、旅をしてきた友のための求めです。日毎の糧が乏しい人のためのとりなしです。この求めの「しつこさ」は、私たちに挑戦を与えるものです。自分にはそれほどの熱心や大胆さがないと思う人のために、イエス様は、次の話しに進みます。
とにかく、求め、探し、たたく熱心を持ちなさいと、勧めた後で、イエス様は父親の愛に訴えます。魚や卵を求める子どもに、蛇やさそりを与える親がいないように、私たちの天の神様は、最も良いものをお与えにんるのです。それが、聖霊です。
聖霊こそ、私たちの友のために熱心に祈る愛を注いでくださるのです。罪のために完全ではない私たちのために、主イエス様が用意してくださったのは、聖霊です。この方は、私たちの祈りを御心にかなうものとして取りなしてくださるのです(ローマ8:26)。聖霊によって、神の愛に生きることができるように助けていただきつつ、主イエス様の姿に変えられていけるのは、幸いなことです。求め、探し、たたきながら、祈りの世界に生きていきましょう。そこで主の恵みを実感し、心からの感謝を捧げることでしょう。