礼拝メモ 1月16日
聖書 ヨハネの福音書9章35節-41節
ヨハネの福音書9章は、生まれつき目の見えない人の癒しの記事で始まっています。そして、この癒された人の信仰の成長が描かれています。
最初は、弟子たちの質問から始まりました。生まれつきの障害に対して、「だれの罪」が原因かという問いです。これに対して、イエス様は、だれの罪のためでもなく、神のわざが現れるため、と答えて、唾で泥を作り、この人の目に塗り、「シロアムの池に行って、洗いなさい」と彼にできることを指示します。目の見えないこの人が、どうやってシロアムの池まで行ったでしょうか。とにかく、言われたとおりにして、彼はシロアムの池の水で目の周りの泥を洗い落としました。すると、目が見えるのでした。大喜びで家に帰りました。
近所の人たちの話の種にされたり、パリサイ派の人たちから何度も訊ねられました。彼は、その度に、自分の受けた恵みを言い表し、少しずつ、イエス様への想いが深まっていきます。
最初の証しはこうでした。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと見えるようになりました」(11節)。直してくれた人をどう思うかと聞かれ、「あの方は預言者です」と答えます(17節)。「あの人が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(25節)。
それでもまた呼び出されたこの人は、少しむきになりながらも、冷静に反論します。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなた方が知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目に生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです」(30-33節)。パリサイ派の人々は、彼を追放します。道理が通らないと、無理を通すのが、人の常です。
追い出された人は、目が見えなかった時には知らなかった場所を訪ねて回ったのではないでしょうか。ですから、イエス様は追放されたと聞いて、探さなければならなかったことでしょう。「彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか』」(35節)。この人は、信じたいと告白し、「その人はどなたですか」と聞きます。イエス様は、ほほえみながら「わたしだよ」と自己紹介をします。「彼は『主よ、信じます』と言って、イエスを礼拝した」のでした(38節)。
「礼拝する」とは「ひれ伏して敬意を表わす」ことです。そして、それは「生ける神を相手として生きる全生涯に及ぶ生活態度」になるのです。彼はこの後、ずっとイエス様は救い主と信じて、ペンテコステの日に120人の中にいたことでしょう。
教会とは、礼拝する人たちの集まりです。使徒信条に表された三位の神を信じて生きるのです。イエス様は、生まれつきの障害は罪のためでなく、神のわざのためと言って、因果応報を越える恵みのあることを語ってくださいました。そして、私たちの心の目を開いてくださいます。また、安息日の主でもあります。この方が私たちの身代わりに死んでくださった救い主です。この方を私の主人公として、礼拝する心で日々を送りましょう。