礼拝メモ 1月9日
聖書 ハバクク書2章1節-4節
主との交わりに生きた聖徒たちは、旧約聖書にもたくさん現れます。アダムとエバ、アブラハム、モーセ、ギデオン、ダビデ、ソロモン、ヨナなどすぐに浮かんできます。今朝は、預言者のハバククの書を開きます。
彼は、ユダヤ人が律法から離れて、暴行と争いに満ちているのを見て、神が罰しないのをいぶかって、神に訴えます(1章2−4節)。それに対する神様の答えは、カルデア人を使ってさばきを下す、というものでした(1章5−11節)。
ハバククは、悪いユダヤ人を罰するのに、もっと残虐なカルデア人を使うのは、神様にふさわしくないのではないかと、訴えます(1章12−17節)。そして、ハバククは神様の答えを待つのです(2章1節)。2章2−4節は神様の答えです。この答えの中に、新約聖書にも引用される、すばらしい聖句があります。それは、「正しい人はその信仰によって生きる」という聖句です。
このことばは、信仰の大伽藍と言われるローマ人への手紙の初めの部分(1:17)に引用されています。そこでは、この手紙の主題として、この聖句が引用されています。つまり、信仰の大伽藍の土台に、この言葉が引用されているのです。
ガラテヤ人への手紙3章11節にも、この聖句は引用されています。神の約束を信じる信仰が強調されています。もう一箇所、ヘブル人への手紙10章38節にも引用されています。その後、ヘブル人に信仰によって生きた人たちのことが11章で列挙されています。信仰の章として有名な11章の土台となっているのが、この聖句です。
このように、ハバククの言葉は、重要な聖句として後代の人々に読まれていたのです。短い預言書であるハバクク書が、大きな影響を与えたのです。それが、ハバククと主との交わりの結果生まれた書であることは、忘れてはなりなせん。
主との交わりは、カッコウをつけたり、体裁のいい会話にする必要はありません。このハバククのように、真摯に訴えるのも、交わりの一つの形なのです。ある人は、「赤ちゃんのようであっていい」と言います。お腹が空いてお乳を求める赤ちゃんのように、泣き叫ぶのもあり、というのです。その時、聖書の言葉や祈りを用いるのも、よいことです。
昨年は、主を喜ぶことに心を用いました。その延長上に、主との交わりがあると思います。祈りと聖書とが一体となって、主との交わりを深めていきましょう。かつて、浦和に神学院があったころ、Kさんが管理をしていました。仕事をしながら、よく「主よ、助けたまえ」と祈っていました。庭木の世話や屋根瓦の修理にも、この言葉が聞かれました。単純で、真実なKさんに励まされました。
私たちの愚痴をも聞いてくださるのが、真の神様です。案外、分かったことにして、神様に話さないのではないでしょうか。もっと、主を前にして話してみましょう。主との交わりが深くなれば、主のみ心をさらによく知ることができるのです。イエス様に話しましょう。イエス様は待っておられます。