礼拝メモ 12月12日
聖書 ヨハネの福音書3章1節-15節
私たちクリスチャンは、二千年前の出来事の書かれた聖書を読んで、恵みをいただいています。どうしてそんなことができるのか、と思う方もあるでしょう。それは、私たちの信じる方、主イエス・キリストが永遠の方だからです。
ヨハネの福音書3章には、ニコデモがイエス様を訪問した記事が記されています。ニコデモの質問に対して、主イエスの答えははっきりしていました。そして、ニコデモは戸惑ってしまいました。「新しく生まれる」とはどういうことなのか、分からなかったからです。そこで、イエス様は説明をしました。「罪を悔い改めて、私を信じるなら、聖霊が新しいいのちを与えてくださり、永遠の世界に入れる」と語ったのです。
その中で主イエスが語った言葉に注目します。「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。」(13節)この言葉には、天において父なる神様との深い交わりがあったことが想定されています。つまり、主イエス様は、永遠の御父とともに暮らしてきた方です。
ユダヤ人との間で「天からのパン」の問答をした時、主イエスは何度も「天から下った」と言いました。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものです」(6:33)。「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです」(6:38)。「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでも、このパンを食べるなら、永遠に生きます」(6:51)。
そのほか、「父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです」(6:46)。「わたしは父のもとから出て、世に来ました。再び世を去って、父のもとに行きます」(16:28)。「それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか」(6:62)。また、「世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を」と語った言葉もあります(17:5)。
永遠の御子は、世界が造られた時から、この世界を見ておられ、時々、「御使い」として現れました。ハガルやヤコブ、モーセ、ギデオンたちに現れました。そして、黙示録1章17、18節にはこうあります。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、みよ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」なんという言葉でしょうか。十字架で死なれたナザレのイエスは、世々限りなく生きておられる方なのです。
永遠の御子が十字架につかれたことが、私たちの罪の宥めとなったのです。そうでなければ、二千年後の私たちに罪の赦しが与えられることはないでしょう。ですから、3章15節には、「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つ」と約束されているのです。
永遠の御子が人となられ、人々の間で暮らし、神のみこころを教え、十字架につけられ、3日目によみがえられたのです。そして、今も生きておらる、呼び求めれば答えてくださるのです。なんと幸いなことでしょうか。
イエス様との交わりをもっともっと深くしてまいりましょう。祈りの世界は深いのです。大きなことも、小さなことも、イエス様にお祈りしていきましょう。共に歩んでくださる方として、その愛をもって答えてくださるのですから、感謝です。このような特権を無駄にしないように、心したいものです。イエス様は、私たちを求めておられるのです。幸いな救い主に感謝を捧げ、賛美を捧げましょう。