礼拝メモ 12月5日

聖書 ヘブル人への手紙5章5節-10節

 先週は「永遠の昔から」という聖句からお話ししました。今朝は、「永遠の救い」という聖句を思い巡らします。

 聖書はヘブル人への手紙ですが、この手紙には「永遠」とか「とこしえ」という言葉が合わせて13回出て来ます。1章に1回の割合です。その中から、「永遠の救い」を取り上げます。永遠の救いですから、もう地獄に落とされることがないことがわかります。確かに、滅びを免れるのですが、これでは消極的な理解です。それでは、聖書には、永遠の救いについて、どのように記されているのでしょうか。調べてみましょう。

 旧約聖書のダニエル書には、「永遠の義」ということばがあります(9:24)。救い主のもたらす恵みとして記されています。義とは、神に正しい者として受け入れられことであり、神に喜ばれる存在として生きることができる恵みです。自分はそんな神に喜ばれることはしていない、と思う人は、自分の正しさを主張しているので、神の前には義とされません。永遠の義は、神の愛の表れです。あなたがどんな人であれ、神が信仰の故に喜び受け入れてくださるのです。

 新約聖書に戻りますが、テサロニケ人への手紙2章16節には、「永遠の慰め」という言葉が出て来ます。もう、何も恐れることのない慰め、励ましです。罪のために神を恐れたり、遠慮する心が取り去られ、愛されている思いで心が慰められ、励まされるのです。永遠に。

 テモテへの手紙第二の2章10節には、「永遠の栄光」という言葉が現れます。この地上では決して味わえない栄光が用意されているというのです。コリント人への手紙第二にはこうあります。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」とあります。栄光といえば、イエス様の復活の栄光のからだを思い出してください。閉じられた部屋にスッと入って来たり、クレオパと連れの人の前からスッと消えたり、引力に影響されずに天に登っていった、あのからだです。痛みも病気も死もない、霊のからだです。

 ヘブル人への手紙には、9章15節に「永遠の資産」が用意されているとあります。あなたが地上で受け継ぐ資産がどれほどあっても、永遠の資産に比べれば、雀の涙です。「天に蓄えられている」「朽ちることも、汚れることも、消えてゆくこともない資産」です(ペテロの手紙第一1章4節)。

 永遠の救いは、これら全てを含んでいますが、それ以上のものです。どのようにしてこの永遠の救いが与えられるのでしょうか。それは、イエス様が成し遂げられた「永遠の贖い」のゆえです(ヘブル人への手紙9章12節)。イエス様が十字架について、そのいのちを捨ててくださったことによるのです。この「贖い」という言葉は、身代金という意味もあります。奴隷を解放するために払われる身代金です。私たちが罪の奴隷になってしまった状態から解放するために、イエス様は十字架でいのちを差し出されたのです。何という愛でしょうか。何という恵みでしょうか。

 イエス様から救いをいただいた人は幸いです。永遠の救いがあるからです。そして、これは、すべての人に差し出されている恵みです。信仰と感謝を持って受け取ればよいのです。無代価でいただける恵みです。感謝と喜びをもって、聖餐式にあずかりましょう。

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