礼拝メモ 11月28日

聖書 ミカ書5章1節-6節

 今年の待降節となりました。救い主のおいでを待っていた人たちの中から、ミカ書の預言を取り上げます。

 ミカの生きた時代は、アッシリアの勢力が強く、小さなパレスチナの国はその圧政に苦しみました。しかし、当時の為政者たちは、わいろを求めたり、人のものをかすめ奪ったりしていて、信頼できない人たちでした。極め付けは、神殿に偶像をもちこむしまつでした。

 ミカは、そのような罪を責め、正そうとしました。しかし、人々の心はすぐには変わりませんでした。ミカの希望は、救い主に来ていただくことでした。その方が来られると、「その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す」(4:3)平和の時代が来るからです。それは、世の終わりの出来事です(4:1)。

 5章の1節は、そのような支配者たちが辱めを受けることを語っています(「イスラエルをさばく者の頬を打つ」の意味)。それに対して、ミカは、希望の預言を伝えます。それが、2節です。「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのために/イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」

 この預言は、「イスラエルを治める者」すなわち、救い主がベツレヘムで生まれる、と言っているのですが、それに伴う二つのことを考えておきます。

 ミカの言葉ですと、ベツレヘムは「ユダの氏族の中で、あまりにも小さい」となっています。確かに小さい村だったのでしょう。でも、そこを救い主の誕生地として選ばれたのが、神様の選びでした。ここに、神様の流儀があると言えます。ベツレヘムはダビデの誕生地ですが、サムエルの前に呼ばれたのは兄たちで、末っ子のダビデは数に入らなかったのです。しかし、神様はダビデを選んだのでした。

 新約聖書を見ても、コリントの教会への手紙に、こうあります。「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば、知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものにするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです」(Ⅰコリント1:26−27)。ヤコブもその手紙で、「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者にし」て御国を受け継ぐ者としたと、語っています(ヤコブ2:5)。

 さて、もう一つ、ミカの預言の言葉の中で引き付けられる言葉があります。「その出現は昔から、永遠の昔から定まっている」という文言です。救い主の出現は、世の始まる前から決まっていたのです。驚くべきことです。

 主イエス様は、十字架刑を前にして、ご自身の栄光について次のように語っています。「父よ、今、あなたご自身が、御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を」(ヨハネ17:5)。「わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられるまえからわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を」(同17:24)。

 イエス様は、牧者・王として治めるために、ベツレヘムにお生まれになるのです。それが成就したのです。この方にこそ、希望を託して生きていきましょう。

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