礼拝メモ 11月14日

聖書 ルカの福音書5章33節-39節

 ルカの福音書は人間味のあるイエス様の姿を描いています。今朝の聖書の箇所は、当時のユダヤ人には分かりやすいたとえ話です。

 「また彼らは」で始まる段落ですが、少し前の30節にある「パリサイ人や律法学者」たちのことです。彼らはレビの家の宴会を見て、弟子たちに「小声で文句を言った」のですが、イエス様が答えました。そこで、今度はイエス様自身に質問を向けました。それは、断食に関する質問です。

 「ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをしています。パリサイ人の弟子たちも同じです。ところが、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」この言葉は、憤懣やる方ない思いなのか、うらやましい気持ちなのか、どちらでしょう。

 イエス様は、たとえ話で答えました。最初は花婿と友人のたとえです。パリサイ人の言葉にある「あなたの弟子たち」に関連するのが、この友人ですから、花婿はイエス様ご自身のことです。花婿に付き添う友人たちはお祝い気分ですから、断食をするはずがない、と言うことでしょう。しかし、「花婿が取り去られる」とは、イエス様がご自身の死を意識していたことが分かります。その時は、悲しみのゆえに断食をするでしょう。

 さらに、イエス様の話しは続きます。今度は、布切れのつぎ当ての話しです。古い布はしょうが抜けてしまい、新しい布で継ぎを当ててもすぐダメになってしまいます。これは布の性質を言っているのですが、パリサイ人の考え方ややり方のなかに古いしきたりで、意味もなくやっていることを暗に示しています。新しい布であるイエス様の教えは、彼らのやり方では合わないのです。

 どうして新しい布で古い布の破れを継ぐことができないかというと、新しい教えであるイエス様の生き方には、パリサイ人にはない何かがあるからです。それを示す例えが、ぶどう酒と皮袋のたとえです。

 皮袋は、ヤギや子羊の皮をなめして作ります。水や牛や山羊の乳を、あるいはここで言われているぶどう酒を入れるのに使われます。ただし、ぶどう酒は、新しいものは発酵を続けますので、袋が膨らみます。古い皮袋は硬くなっていて、その膨張に耐えられず、破裂して破れてしまいます。それではぶどう酒まで流れ出てしまいます。これは、当時の人々には当たり前のこととして理解していたでしょう。私たちには少々説明が必要です。

 イエス様の生き方に共鳴し、その教えにならって生きていこうとすると、この新しい生き方には、新鮮な、活き活きした活力がありますので、古いやり方を踏襲するのでは間に合わないのです。

 断食については、宥めの日(ユダヤの7月10日)が断食の日として定められていましたが、そのほかは任意でした。それを月曜と木曜の週に2日断食する習慣がパリサイ人の中にありました(ルカ18:12)。このパリサイ人の祈りは単なる自慢話のように見えます。それに比べて、取税人の祈りは「神様、罪人の私をあわれんでください」でした(18:13)。ここにイエス様の恵みに生きる生き方の出発点があります。イエス様の教えは、心が純潔にならないと実行できないのです。そのために、まず、罪を赦されて、主イエス様と親しく生きるとき「新しい皮袋」が生まれるのです。神様の愛を受けて、神様と人を愛して生きる幸いな人生を歩みましょう。

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