礼拝メモ 11月7日

聖書 ダニエル書12章1節-13節

 本日は、先に召された方々を偲び、主の恵みを思う、召天者記念礼拝です。希望についてお話しします。

 主イエス様がよみがえられたことは、聖書が証ししているので、私たちは信じています。そして、イエス様がよみがえられたのなら、私たちもよみがえる日があることを信じます。

 そもそも、死とは何でしょうか。肉体と霊が別れることです。そして、肉体の機能が働かなくなります。そのことが、生身の人間にとって恐ろしいことなのです。ですから、死を忌み嫌うのです。それは、世界共通でしょう。

 ヘブル人への手紙には、次のように書かれています。「イエスもまた同じように、それら(血と肉)をお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれている人々を解放するためでした。」(2:14−15)

 主なる神様は、アダムとエバが罪に落ち込んだ時、誘惑した蛇にこう言いました。「彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」(創世記3:15)。彼とは女の子孫で、救い主を表します。おまえとは悪魔のことです。イエス様が十字架につけられて死なれた時、悪魔は「やった」と喜んだことでしょう。しかし、イエス様はよみがえられました。イエス様の勝利でした。これにより、悪魔はもう死の力を奪われたのです。つまり悪魔は頭を打たれ、イエス様の十字架はかかとを打たれたことになります。もう、悪魔は滅びが決定しているのですから、死を恐れる必要はないのです。

 死後のことについて、ほとんど書かれていないと言われる旧約聖書にも、いくつかの箇所で、よみがえりを示唆し、明言する言葉が残されています。

 ヨブ記19章25−26節。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。」

 イザヤ章25章8節。「永久に死を呑み込まれる。神である主は、すべての顔から涙をぬぐい取り、全地の上からご自分の民の恥辱を取り除かれる。主がそう語られたのだ。」

 イザヤ署26章19節。「あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。覚めよ。喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。まことに、あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。」

 エゼキエル書37章は、枯れた骨の平地の場面ですが、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか」という質問から始まって、「私が命じられととおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団だった」となります(10節)。

 最後がダニエル書です。「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる(12:2−3)。復活かあるから、死を眠ると表現することになります。眠った者が目を覚ますのは、よみがえりを意味しています。私たちに希望を与えるこれらの聖句に感謝します。生ける主にお頼りしていきましょう。よみがえりの希望を持って。