礼拝メモ 10月31日
聖書 マタイの福音書25章14節-30節
宗教改革記念日ですが、たとえ話の続きに戻ります。たとえ話にはイエス様の再臨を示唆するものがたくさんあります。イエス様はご自身が帰ってくることを意識していたのでしょう。「帰り」とか「帰る」という言葉が現れるのです。
さて、今日はタラントのたとえ話を取り上げます。「タレント」という言葉のもとになったたとえ話です。イエス様の時代には貨幣の単位として使われました。6000デナリが1タラントとされていました。およそ20年分の給与と考えられます。ですから5タラントは100年分の給与となります。相当な多額の資金をしもべたちに委ねたことになります。
イエス様の再臨まで、弟子たちは何もしないで待っているのでなく、働かなければならないことが示唆されています。主の証し人(あかしびと)として働くのです。そのためにタラントが預けられているのです。
ただ、5タラントの人が5タラント儲けたとか、2タラントの人が2タラント儲けたと、倍加することが求められているのではありません。そのように考えて怖くなった、という人がいます。どうぞそんな考え違いをしないでください。イエス様がこの二人に語った言葉には、そんな響きはありません。「よくやった。良い忠実なしもべだ」とほめておられます。良い品性と忠実な奉仕をほめておられます。
この主人は、財産を預けるにあたって、「それぞれの能力に応じて」預けました。すでに一人ひとりに能力を与えているのです。イエス様はエジプトのファラオのように厳しくムチを持って働かせるのではなく、主人と心を合わせて奉仕してほしいのです。
5タラントと2タラントと1タラントを預けたのは、一人ひとり違う人だからです。主は私たちを十把一絡(から)げに扱うことをしません。それぞれにイエス様はいろいろなものを預けてくださっています。ここには信頼関係、愛の関係があるのです。1タラントを預かった人は、その信頼と愛が欠けていたのです。
(主人の言葉として、「私の金を銀行に預けておくべきだった」とあります(27節)。ある本に、私はこれを教会生活に当てはめました。同じように語っている方がありました。大きな声で交読したり、賛美したりすることは健康に良いのです。それは利息のようなものです。)
このたとえ話は、イエス様が再臨なさるとき、私たちに報いが与えられることを語っています。私たちが主に奉仕するには無力だと感じるとき、一層、主の預けてくださったものに目を留めてみるのも良いことです。「生まれつきの能力、社会的な感化力、財政的資源、教会やこの世における地位、生涯にもたらされた好機会」(シンプソン)、それに健康、体力、記憶、愛情、感覚、時間、聖書など、たくさんのものが託されています。タラントとは可能性なのではありませんか。
「主人の喜びをともに喜んでくれ」とは、天の宴会の席でともに喜んでほしいとの招きです。それに「わずかなものに忠実だったから、多くの物を任せよう」とは、何という驚きの招きでしょうか。100年の給与さえ「わずか」と言われる主が、どんなに多くの物を任せてくださるのでしょうか。御国は地上以上に奉仕が豊かな世界のようです。主とともに歩み、奉仕をすることができることは何という特権でしょうか。イエス様と共に歩める幸いを味わいましょう。