礼拝メモ 9月12日
聖書 ルカの福音書16章19節-31節
まん延防止等重点措置が今日で終わります。なお、感染に注意していきましょう。
今日は、少し長いイエス様のたとえ話を取り上げます。金持ちとラザロの話として覚えられていますが、今朝は金持ちの失敗としてお話しします。
最初に「ぜいたくに遊び暮らしていた」金持ちが登場します。次に、ラザロという貧乏人が登場します。二人とも死んで、死後の世界に入ります。ラザロはアブラハムのふところで慰められ、金持ちはよみの炎の中で苦しみます。
金持ちはよみで苦しみながら見上げると、ラザロがアブラハムのふところに入るのが見えます。そこで、金持ちはアブラハムに願います。一滴の水のためにラザロを遣わしてください、と。アブラハムは、この事態が起こったのは、生きていたときの報いであるから、しかたがないこと、また、深い淵があって二つの世界は行き来ができないことを告げます。
金持ちは、食い下がって、ラザロを兄弟のところに遣わしてほしいと願います。それに対して、アブラハムの答えは、「彼らにはモーセと預言者がいる(聖書がある)。その言うことを聞くがよい」でした(29節)。
金持ちはさらに食い下がります。「もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう」(30節)。しかし、アブラハムの答えは、「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」でした(31節)。
ここでたとえ話は終わっています。このたとえ話の中心は、金持ちが「モーセと預言者たち」——神の言葉に耳を傾けなかったこと、心を用いなかったことです。それが、よみに行く結果となったと伝えています。
たとえば、申命記15章7節は、次のようになっています。「あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない」。この言葉を守っていれば、彼はよみに行かずに、パラダイスに行くことができたのです。しかし、実際は、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」のです(19節)。しかも、この金持ちは、ラザロに親切にしなかったのに、水を運ばせたり、家族のもとに遣わしたがっています。ラザロをさげすんでいるのです。
それに対して、ラザロは何も語っていません。ある人は、ラザロの沈黙の中には、次のような思いがあったと推測しています。「地上での過酷な運命について決して不満を言わず、死後に金持ちを満足げに眺めることもせず、自分を使いに送ろうと躍起になっている金持ちに対して憤りも表さない。一貫して、神が与えてくださるものを受け入れている。」ラザロという名前は、「神が助けてくださる」という意味です。彼は、神の助けに信頼して生きたのです。
たとえ話は、私たちを、あなたはどちらですか、と問いかけます。ラザロですか、金持ちですか。私たちは一生この金持ちのように自分中心で、愛の無い生活をするでしょうか。時々そういうことがあったかもしれません。そのような気づきが与えられたなら、救い主にお頼りしましょう。そのために、イエス様は天から下り、十字架にまでついてくださったのです。「この炎の中で苦しくてたまりません」という金持ちのようにならないで、慰めのパラダイスで、イエス様をほめたたえましょう。聖書にしっかりと土台を置いた人生は幸いです。