礼拝メモ 9月5日

聖書 ルカの福音書14章12節-24節

 イエス様のなさったたとえ話は40もあります。その中から今朝は、宴会の話を取り上げます。新約聖書には食事の場面がたくさんあります。最も有名なのは、最後の晩餐でしょう。十字架に向かうイエス様が弟子たちと食事をとった時のことです。ユダヤ人の中では、神の国の完成は豊かな宴会として描かれることがありました。イエス様は、そんな当時の人の聞き慣れた宴会の話をいくつかしています。

 ここでは、宴会にどのような人を招くかについて、12節から14節で語っています。招待したら、お返しの食事会がやってくるという当時のしきたりを土台にして、お返しのできない食事会をしなさいと、勧めています。

 それを聞いていた人が、「神の国で食事をする人は何と幸いでしょう」と思わず口走ったことばを受けて、イエス様は一つのたとえ話をしました。それが今日の主題のたとえ話です。

 「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。」ユダヤの宴会は、何日に宴会を催しますのでご出席下さいという、招待から始まります。そして、当日に再び、準備が整いましたから、おいでください、と二度目の招待が届くのです。

 イエス様のたとえ話では、まず招待がなされ、二度目の招待もなされたと、普通の宴会の招待を描きます。ところが、招待された人たちは、「みな同じように断り始めた」のです。ここには、三人の例が上げられています。

 宴会を催した主人は、断りを入れた人たちに怒りを感じましたが、「町の大通りや路地」から「貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たち」を招くようにと言います。これは、13節にあったお返しのできない人たちと同じです。さらに席があいていると聞くと、その主人は、「街道や垣根のところ」から人々を集めてきなさい、と招待を拡大します。

 聞いていたユダヤ人には、少し奇異に感じられたはずです。しかし、これが、神の国の宴会のたとえ話なのです。最初に招かれたのはユダヤ人です。彼らはからだの不自由な人たちは神の国に入れないと考えていたのでしょう。しかし、神の国は彼らが認めないような人たちにも開かれているのです。さらに街道などの町の外にいる人たちとは、外国人のことです。つまり、ユダヤ人以外の人も、神の国の宴会に招かれているのです。

 宴会の出席を断った人たちの理由を見てみましょう。畑を買った、牛を買った、結婚した——どれも、言い訳に過ぎません。畑は逃げ出しませんし、牛だってつないでおけばいいのです。結婚したのなら、二人で宴会に出席すれば、主人は喜んでくれるでしょう。ベター(次善)がベスト(最善)の敵となることがあるのです。神の国の宴会をベストに据えて、招待に応える人は幸いです。

 最初に「神の国で食事をする人は何と幸いでしょう」と言った人は、はたして神の国の宴会にあずかれたのでしょうか。今、私たちは、外国人ですが招かれているのです。神の国の宴会のために、主イエス様は十字架についてくださいました。神の国の世継ぎとされることが、どんなに桁外れの恵みか、思い巡らして下さい。感謝は尽きないのではないでしょうか。日ごとの歩みの中で、御国の宴会に招かれている幸いを覚えて、あふれるばかりの感謝をもって生きていきましょう。

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