礼拝メモ 8月29日

聖書 マタイの福音書13章44節-46節

 先週に続き、今朝も短いたとえ話を開きます。一つは、畑の中の宝です。いま一つは高価な真珠です。似たもののたとえ話になっています。

 先週もお話ししたように、天の御国とは、天国のことではなく、神の国、神様の御心の世界を表しています。別の言葉で言うと、福音であり、永遠のいのちです。

 まず、「天の御国は畑に隠された宝のようなものです」と語られました。

 当時、宝を隠す場所は、銀行の貸金庫のようなものがない時代でしたから、地の下に隠したのです。畑もそのような隠し場になりました。畑の一角に穴を掘って、壺に入れた宝を埋め、土をかぶせておいたのです。ところがその持ち主が、戦死をしたり、旅先で亡くなったりして、隠されたままになっていることがあるのです。

 そんな畑を知らずに耕していて、たまたま宝を見つけたら、そのまま隠しておいて、家に帰ります。「そのまま隠しておき」とは、そういう宝は見つけた者のものになりますが、ここでは小作人か日雇い労働者の話として読むことができます。その場合、宝を見つけたと知れば、その畑の持ち主が宝を持って行ってしまうでしょう。それで隠しておいて、畑の代金を工面して、買ってしまうのです。そうすれば、畑代はかかりますが、宝は自分の手もとに残るのです。

 なぜ、そんなことをするか? ですね。それは、「喜びのあまり」と書かれているところが鍵になります。神の国は、その値打ちが桁違いのものであることを知った人が手に入れるのです。

 この人の場合、たまたま掘り当てたのです。自分の仕事に精を出したことと結びついています。ブラザー・ローレンスという修道僧は、他の人たちが修行している時、台所で仕事をしていました。しかし、彼にはそこで神の臨在を知り、まるで聖餐式にあずかっているような恵みを経験していました。ブレングルという青年は、同僚の汚い靴を磨くとき、イエス様が弟子の足を洗った記事を思い、主の恵みに感じたと言われています。

 ブラザー・ローレンスにしてもブレングルにしても、主がここにおられる——天地を造られた主、身代わりに十字架で死なれた主、そうやって愛を表してくださった主がともにおられる——これこそ喜びであり、宝です。日々の務めを正直に、良心的に果たした時に、与えられた喜びです。

 真珠のたとえ話が続きます。今でこそ養殖の真珠が手に入りますが、昔は天然の真珠でした。なかなか良い真珠は見つからないのです。ここに登場する商人は、小売人ではなく貿易商でしょう。探し探ししている時、ついに「高価な真珠」を見つけました。彼は持ち物を売り払って、そのすばらしい値打ちのある真珠を買ったのです。

 神の国とは、それほどに尊いもの、高価なものなのです。ある人は、「すべての通貨の価値を失わせるような富」と表現しています。

 神の国を経験するとは、永遠のいのちを経験することであり、神の友となることと言えます。私たちは「自分の身代金を神に払うことはできない」小さな存在です(詩篇49:7−8)。イエス様がご自身を贖いの代価として十字架に死んでくださり、よみがえられたので、私たちは永遠のいのちを無代価でいただけるのです。まさに、すばらしい値打ちのある真珠をいただけるのです。宝も真珠も「買います」となっています。これは、イエス様を信じて手に入れることです。

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