礼拝メモ 8月15日

聖書 ルカの福音書10章25節-37節

 ここには、永遠のいのちを願う人が登場します。「何をしたら」永遠のいのちを受けることができるかと、主イエスに尋ねました。イエスは、律法をどのように読んでいるかと、反問しました。すると、彼は、心から神を愛し、自分のように隣人を愛することだと、答えました。イエスは、「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と答えました。

 この人は、隣人にはどのような人が含まれるか、自分なりに隣人をあいしているのに、いのちを得たとは思えない。そこで彼は「私の隣人とはだれですか」と問いました。イエス様の答えは、たとえ話の形をとりました。「良いサマリア人」と言われるたとえ話です。

 「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行った」という言葉で始まります。確かに、エルサレムは標高の高い所にあり、エリコは海面より低いところにあります。およそ1,000㍍の高低差ですから、「下って行った」のです。その道は険しく、曲がりくねり、盗賊が隠れる格好の場所でした。この旅人は、まんまと盗賊に襲われて、半殺しにされたのです。

 そこを通った人、祭司もレビ人も「反対側」を通って行きました。しかし、サマリア人は、かわいそうに思い、助けたのです。オリーブ油やぶどう酒で消毒し、包帯をし、家畜に乗せて宿屋に連れて行きました。さらに、デナリ二枚を出して、宿屋の主人に介抱を頼むのでした。

 イエス様はたとえ話を終えて、「だれが強盗に襲われた人の隣人になった」かを尋ねます。「その人にあわれみ深い行いをした人です」という答えでした。

 このたとえ話は、まず苦しんでいる人をあわれんで助けることを勧めていると理解することができます。確かに、「良いサマリア人病院」が各地にあります。

 しかし、最初に質問をした人の、永遠のいのちということを考えると、「あなたも行って、同じようにしなさい」という言葉を実行できるとは思えません。彼は、イエス様がはっきりと「サマリヤ人」と言ったのに、「その人にあわれみ深い行いをした人」と言っています。彼にはサマリア人に対する偏見があったのです。ですから、同じようにはできないでしょう。行いによって永遠のいのちを得ようとすることは、間違っています。それでは得られません。永遠のいのちはあくまでも賜物なのですから(ローマ6:23を参照)。

 もう一つの見方があります。神の都エルサレムからエリコに下ってゆく旅人は、私たちの姿と見られます。そして、悪魔に襲われて罪を犯し、死にそうになっている姿に見えます。そうすると、このサマリア人のあわれみと介抱と世話は、主イエス様が人となられて、罪からの救いを与えて下さる恵みに見えます。オリーブ油とぶどう酒は、聖霊の助けを感じます。このイエス様の御愛に身を委ねて生きるなら、永遠のいのちをいただけるのです。何という恵みでしょうか。

 そして、「帰り」という言葉から、イエス様の再臨を思い浮かべます。信仰を全うするなら、冠をいただけます。オリンピックのメダルとは比べものにならない名誉なことです。まさに与えられる資格のない者に、神様は大きな祝福を与えて下さるのです。感謝しましょう。そして、良いサマリア人のように、苦しむ人を助けることができるようになります。幸いな経験です。主よ、ありがとうございます。

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