礼拝メモ 8月8日

聖書 ルカの福音書15章25節-32節

 三つのたとえ話があるルカの福音書15章の3度目のお話しです。このたとえ話は、「ある人に二人の息子がいた」で始まりました。そして、弟息子は自分に分け与えられた財産をまとめて家出をしてしまったのです。その結果、一文無しになって悔いて、父親のもとに帰って来ました。かわいそうに思った父親は、彼を迎え入れ、祝宴を始めたのです。

 今日は、この後の出来事です。

 兄息子は、野良仕事から帰ってくると、家のほうから「音楽や踊りの音」がしてきました。何事かと思って、しもべに聞くと、「弟さんが無事に帰ったのでお祝いしているのです」という答えでした。この時、兄息子の心が怒りに燃えたのです。そのため、彼は家に入ろうとしませんでした。

 父親は、家から出て来て、兄息子に静かに語りかけます。しかし、兄息子は文句を言うだけでした。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは」(29−30節)。

 この兄息子の言葉にはとげがあります。「お父さんにお仕えし」という言葉には奴隷として仕えるという意味があります。親子なのに、「奴隷」のように仕えるとは、何というひねくれた心なのでしょうか。確かに形の上では「戒めを破ったことは」なかったとしても、今、父の心を無視して文句を言っている姿には、従順のかけらも見えません。財産はすでに兄息子にも分け与えられているのですから(12節)、「子やぎ」を買うのは彼の自由だったはずです。「遊女」という言葉が彼の口から出たのは、なぜでしょうか。弟のことを見てきたわけでもないのに、このように言うのは、兄息子の心の中にある欲望が明らかになったものと考えられます。「食いつぶした息子」という言葉の原語では、「あんたの息子」というひねくれた言葉もあるのです。

 これに対して、父親の言葉はあくまでもやさしく、心に響くものでした。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」父親にとって、兄息子も大切な子です。そして、子に渡したものを、もうどうしようと干渉はしないのです。「おまえの自由にしてよいのだよ。」という心のこもった言葉でした。

 最後に、「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか」と答えました。ここには、いなくなった羊の時、なくなった銀貨の時、そして、弟息子が帰って来た時に語られたことと同じ気持ちが表されています。

 弟息子は交渉のもてない遠い国に行ってしまいました。死んだも同然だったのです。そして、まじわりのない空虚さを悲しんでいた「いなくなっていた」という言葉が心に響きます。兄息子は、一緒に暮らしながら、「親の心、子知らず」で、まるで別世界に暮らしているようなものでした。毎日一緒なのに、その心は遠く離れていたのです。

 弟のようにはっきりしたわがままではありませんが、兄息子も失われた羊のような存在でした。そのことに目が覚めて、悔い改めることを、イエス様はねがっていたのです。

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