礼拝メモ 8月1日
聖書 ルカの福音書15章11節-24節
この15章には三つのたとえ話が記されています。先週はそのうちの最初の二つのたとえ話をお話ししました。三つ目のたとえ話は少し長いので、二度に分けてお話しします。前半は、「放蕩息子のたとえ話」として知られています。
11節は、「ある人に二人の息子がいた」と全体を表す言葉で始まります。そして、「弟のほうが」と前半の主人公が紹介されます。
さて、その弟の要求が書かれています。「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい。」これはまた、何という要求でしょうか。遺産を相続するのではなく、まだ元気な父親に相続分を分けてほしいとは、わがままな要求です。
そして、その分けてもらった財産をまとめて「遠い国に旅立った」のです。家族のことも、友人たちのことも抜きで、自分の事しか考えられない自分勝手な行動を取りました。この「自分勝手」とは、人間の罪のありさまとして、イザヤ書に記されています(イザヤ53:6を参照)。
「遠い国」とは、父親の干渉から離れることです。自主独立と言えれば、いいのですが、「そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった」のです。「放蕩」とは、昔は「飲む、打つ、買う」と言われたことでしょう。辞書には「ほしいままに振る舞う」とあります。現代では依存症になるものも含まれるでしょう。弟息子は欲望のおもむくままに財産を浪費したのです。
そして、「何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり」ました。「彼は食べることにも困り始め」ました。泣きっ面に蜂ではありませんが、一文無しになったところに、飢饉です。口に入れるものがなくなったのです。しかたなく、彼はある人に「身を寄せ」ます。そこで弟息子は「豚の世話」をさせられます。当時のユダヤでは豚は食べません。汚れた動物として触ることもしません。その豚の世話をさせられたとは、人間としての尊厳を失ってゆく姿です。
空腹は「豚の食べているいなご豆」さえ食べたくなるほどでした。正にどん底でした。そのとき、彼は「我に返った」のです。「父のところ」が思い出され、いま飢え死にしそうな自分の愚かさに気がついたのです。目が覚めました。そして、心を砕かれて、父のもとに帰り、悔い改めをしようと決意ができたのです。
「天に対して」の罪とは、「父と母を敬え」という十戒を破り、神が治める世界を無視した生き方を悔いた心です。「父の前に罪ある者」とは、養うべき親を見捨て、財産を浪費し、人生の無駄づかいをしたことの悔いです。立ち上がって帰宅の路につきました。
まだ家までは遠かったのに、父親は哀れに思い、駆け寄って抱き、口づけしました。そんな歓迎を予想していなかった弟息子は、どんなに驚いたことでしょう。彼は父親に謝ります。「息子と呼ばれる資格はありません」と言う息子の言葉を聞いても、父親は、「この子に」衣と指輪と履き物をもって来させます。そして、「肥えた子牛」で祝宴を始めたのです。それほどの歓迎をする理由は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」喜びにあります(24節)。
ここには、わがままで自分中心な息子を、悔いて帰るなら赦す父親の姿が描かれています。神のもとを離れた罪人が悔い改めるとき、彼を赦す神の愛を表しています。どんな罪人も、赦されるのです。砕かれた心をさげすまない方なのです(詩篇51:17)。