礼拝メモ 7月11日
聖書 ヨハネの福音書11章28節-45節
今日の出来事は、ベタニアで起こりました。ベタニアはエルサレムの南東にある村です。そこには、マルタ、マリア、ラザロの姉弟がいて、よくイエス様を歓迎してくれました。
しかし、ラザロが病気になり、死にそうなとき、イエス様はヨルダン川のほうに行っていました。そこで、姉たちは「主よ、ご覧ください。あなたの愛する者が病気です」と使いの者を遣わしたのです。ですが、イエス様はすぐにやって来ませんでした。その間、ラザロは死に、墓に葬られました。そして何日かして、イエス様がやって来ました。
マルタもマリアも、もしイエス様がここにおられたら、癒やしてくださったのに、と残念がりました。しかし、イエス様は「あなたの兄弟はよみがえります」と約束しています。そして、墓に向かいました(ユダヤの墓は、横穴で、入り口を石でふさぎます)。墓の前に来たとき、石のふたを取りのけるように、イエス様が言いますと、マルタが「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから」と言います。
するとイエス様は「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか」と答えます。そこで、石をのけました。
イエス様は祈りました。それは、感謝の祈りでした。そして、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で叫びました。すると、布を巻かれたラザロが出て来たのです。イエス様は「ほどいてやって、帰らせなさい」と優しく言われました。
「信じるなら、神の栄光を見る」という信仰を考えてみましょう。
「あなたの愛する者が病気です」と伝えたときの姉妹たちの信仰を、まず考えてみてください。この祈りには、癒やしてくださいという願いはありませんが、イエス様が善処してくださるという信仰が含まれています。そして、「信じるなら」という言葉には、その信仰を持ち続けるように、という勧めが感じられます。
それにしても、「信じるなら」と言われた言葉には、他に何が含まれていたのでしょうか。ヨハネの福音書で「信じる」と言われたときには、主イエス様ご自身を信じるという意味が強いのです。ここでも、「わたしを信じるなら」と言われていると理解して間違いないでしょう。
「わたしを信じるなら」と言うとき、イエス様の愛を信じることが当然含まれます。それは、姉妹たちの伝言の中にあった「あなたの愛する者」という言葉と関連しても、当然入っていることが分かります。
そして、この福音書に示されているイエス様の力を信じることも入っています。カペナウムの役人は、イエス様の言葉を信じて帰った行ったとき、イエス様の言葉が語られた時に息子が癒やされたことを経験しました。距離を超越した働きでした。この時は、時間を超越した働きと考えることもできます。
ヨハネは、イエス様が「わたしはある」というモーセに自己紹介した神様の名前をご自身に使っています(8:24、28を参照)。「信じるなら神の栄光を見る」と言われたイエス様の心には、この「わたしはある」という方であるご自身を信じることの大切さを伝えたかったのではないでしょうか。この方に信頼し、任せてゆく信仰に生きていきましょう。