礼拝メモ 7月4日
聖書 ルカの福音書19章1節-10節
先週は、ニコデモの救いについて思い巡らしました。神の国に入るのは人間の力や努力では不可能であり、ただ救い主を仰ぎ見る信仰がカギであることを、主イエスは教えておられました。今朝は、その救いの内容を見てみたいと思います。
舞台はエリコの町です。ここに、ザアカイという人がいました。彼は取税人でした。この仕事は、当時ローマの統治下にあったユダヤでは、ローマのために税金を集めることでした。これは、ユダヤ人には嫌われる仕事でした。7節には「あの人は罪人のところに行って客となった」という人々の文句が記されています。人々は、取税人を罪人扱いしていたのです。ですから、ザアカイは嫌われ者だったことが分かります。
しかも、彼は「かしら」であり、金持ちでした。嫌われ者になっても、ここまで上り詰めるために、どんなに苦労したことでしょう。しかし、このザアカイにも、心はあります。彼の心には、孤独の寂しさがあったと思われます。そんなザアカイの耳に、ナザレのイエスの噂が届いたのです。病人を癒し、悪霊を追い出し、嵐を静め、仲間のマタイまで弟子にしてしまうこの人は、どんな人なのだろうか。彼の好奇心が動きます。
ある日、そのエリコの町にナザレのイエスが来られたのでした。そして、ザアカイはイエスを見に出かけます。しかし、人々は嫌われ者にイエスを見せたくありません。ザアカイは背が低かったのです。人々の列の前に出してもらえません。けれどもザアカイはあきらめません。前に走って行って、いちじく桑の木に登り、イエスの一行が来るのを待ち構えます。一行が近づいたとき、ザアカイはマタイの顔を見つけたでしょう。このイエスはどのような人なのだろう、と思っていたとき、イエスが足もとで歩みを止め、見上げてザアカイに言います。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」ザアカイも周りの人もどんなに驚いたことでしょう。でも、ザアカイは喜んでイエスを家に迎えたのでした。
ザアカイの家での交わりは、彼の心に新しいものを生み出しました。これまで、人に憎まれても金持ちになる道を突き進んできたザアカイは、イエス様の暖かい心に触れて、変えられました。言いました。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
これに応えて、イエス様は言いました。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」イエス様はザアカイのことを「失われた者」と言っています。これは、背が低かったことでも、金持ちであったことでもありません。ルカの福音書15章に「いなくなった羊」のたとえがあります。この「いなくなった」と「失われた者」とは同じ言葉から訳されています。ザアカイが失われた者であったとは、創造主のもとから離れていなくなった人、迷子の人という意味になります。
イエス様はそのような人を捜して救うために天から来られた救い主です。そして、その救いのために、十字架について人々の罪の贖いをなさった方です。
イエス様が与えてくださる救いとは、創造主のもとに帰る道を作ってくださったので、天地の造り主の赦しと交わりをいただけることです。赦された者は神の子となって、イエス様との交わりをいただけるのです。感謝なことではありませんか。