礼拝メモ 6月27日

聖書 ヨハネの福音書3章1節-15節

 今月は、カペナウムの役人の息子の癒し、エリコの盲人の癒し、そしてサマリアの女性の救いを話してきました。今朝は、ニコデモという人のことを考えます。

 ニコデモは、パリサイ人でした(1節)。このパリサイ人という人たちは、祭司でもレビ人でもなく、平信徒の集団で、律法を守ることによって神の国に入れると考えていた人たちです。ニコデモは、また議員でした(1節)。ユダヤの最高議会の一員だったことを示しています。この議会は、祭司長、律法学者、長老から構成されています。ニコデモは律法学者として議員を務めていたと考えられます。さらに、ニコデモは、「老年」でした(4節)。人生経験も豊富、学識も豊か、人望も厚い、立派な人です。しかし、彼には神の国に行かれる確信がありませんでした。そこで、ナザレのイエスを訪問したのです。

 イエスの忙しい昼間でなく、ゆっくり話せる夜、訪ねたニコデモは、イエス様を「神のもとから来られた教師」と認めて話し始めます。イエス様はいきなり本題に入ります。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と。

 イエス様が伝えたかったことは、「生まれる」という言葉にある「いのち」の問題である、ということです。そのいのちは、老年のニコデモの肉体のことでなく、魂のことです。そして、それは、上から生まれる(3節欄外注)経験であり、「御霊」による誕生を指しています。これは、人間の努力によってできることではありません。神の御霊がくださる賜物なのです。その賜物がなければ、神の国を見ることも入ることもできないのです。

 詩篇104篇に、こうあります。「あなたが御霊を送られると、彼らは創造されます。あなたは地の面を新しくされます」(30節)。新しく生まれること、上から生まれること、御霊によって生まれること、これは、新しい創造でもあることが分かります(Ⅱコリント5:17を参照)。すばらしい恵みです。

 ニコデモには、まだよく分かりませんでした。そこで、イエス様は次のポイントに移ります。どのようにしたら、この神からの賜物をいただけるかに、光を与えます。それが、次の言葉です。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もあげられなければなりません。」ニコデモにとっては、モーセが荒野で蛇を上げた出来事は、承知していました。これは、民数記21章に出てくる出来事です。

 エジプトから約束のカナンの地に向かう旅の途中で、イスラエル人が荒野の旅に飽きて文句を言うのです。それは、不信仰の言葉でした。神様は蛇を送って、人々を噛ませます。噛まれて痛む人たち、中には死ぬ人たちもあり、モーセにとりなしを願います。そのとき、神様の指示で青銅の蛇を作り、竿の先に掲げるのです。蛇に噛まれて痛む人が、その青銅の蛇をみるなる治るという約束です。信じてみた人は、治り、痛みから解放されたのです。

 イエス様はご自分が十字架の上にかけられることを語っていたのです。それが、自分の罪のためであったと信じる人は、永遠のいのちを持ち、新しく生まれることができるのです。ニコデモがすぐに得心したかどうか分かりませんが、十字架にかけられたイエス様の葬儀に参加した勇気は、イエス様への信仰の現れであったと思います。多くの人が、十字架を見上げて、新しく生まれる恵みをいただいてほしいと願います。

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