礼拝メモ 6月13日
聖書 ルカの福音書18章35節-43節
先週は主のことばに信頼することを学びました。今朝は、イエス様を信じる信仰の中身を探ってみましょう。
ルカの福音書18章は、イエス様が最後のエルサレム行きをした旅の途中の記事です。一人の物乞いをする盲人の出来事です。
当時は障害のある人に施しをすることは、みこころにかなったこととして推奨されていました。この盲人も、そのような人々の善意に期待して、物乞いをしていました。目は見えなくても、耳はよく聞こえます。町を通る人々の噂話が耳に入ってきます。そして、ナザレのイエスの噂は、いろいろな奇跡の話しがその教えと一緒になって、人々の口から飛び交っていました。この盲人は、それを聞きながら、自分もその方に目を開いて頂きたいと期待を持つようになりました。
そんなある日、通りが賑やかだったので、理由を訊ねました。ナザレ人イエスがやって来ると聞いて、盲人は大声で叫びます。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と。道を行く人々には雑音にしか聞こえなかったのでしょう。黙らせようとしました。しかし、彼はさらに大きな声で「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫びました。この機会を逃したら、一生会えないかもしれないのです。
イエス様はその声に応えて、弟子にその人を連れて来るように命じます。盲人は喜んでイエス様のもとに来ました。「わたしに何をしてほしいのですか」との問いに、「主よ、見えるようにしてください」と明確に答えました。すぐに、イエス様は、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました」と言われ、盲人の目が開き、ハレルヤと叫びながらイエス様について行ったのです。
「主よ、見えるようにしてください」という言葉を、イエス様は信仰の言葉と言いました。それは、主イエス様の御力を信じる信仰が含まれていたのです。マタイ9章には、二人の盲人がイエス様に目を開いてほしいと願った記事があります。その時のイエス様の応答は、「わたしにそれができると信じるのか」でした(マタイ9:28)。二人の盲人は、「はい、主よ」と答えています。つまり、この二人は、主イエス様は何でもできる力ある方と信じていたのです。そして、エリコの盲人バルテマイも、人々の噂話を通して、イエス様の御力を信じるようになっていたのです。
それとともに、この盲人は、イエス様にはそれをする気持ちがあると信じる心、イエス様の愛を信じる心がありました。ルカの福音書5章には、ツァラアトに冒された人がイエス様のもとにやって来て、「主よ、お心一つで、私をきよくすることがおできになります」と言ったことが記されています(ルカ5:12)。この「お心一つで」という言葉には、この人の躊躇が隠されています。イエス様は、自分の願いに応える気があるだろうか、答えようと思っておられるだろうか、と一抹の不安があったのです。イエス様の愛を信じることが少しだけ足りなかったのです。しかし、あの盲人は、その愛も信じて、「主よ、見えるようにしてください」と願ったのです。
このエリコの町で物乞いをしていた盲人は、みごとにその願いをかなえてもらい、賛美しながらイエス様について行きました。
私たちの願いも、この盲人のように、主イエス様の力と愛を信じている必要があります。救い主は、このような信仰を見て、「あなたの信仰があなたを救いました」と仰ったのです。イエス様の全能と愛を信頼して生きていきましょう。