礼拝メモ 6月6日

聖書 ヨハネの福音書4章43節-54節

 先週の最後に、私自身の救いの証しを話しました。「ただ信じなさい」というイエス様の言葉に、私の心が答えて、救いをいただいた証しです。この、イエス様のことばに答えることの大切さを語る出来事を学んでみましょう。

 カペナウムは、地中海水面より200㍍ほど下にある町です。ガリラヤ湖の北岸にある町です。そこに、一人の「王室の役人」がいました。彼はナザレのイエスのうわさを聞いても、それほど関心を示さなかったのではないかと思われます。しかし、息子が熱病で病床に伏せってしまったとき、彼の心は千々に乱れ救いを求めて祈りました。すると、ナザレのイエスがなさっていたみわざが心に上ってきたのです。彼は、すぐにイエスに会いに出かけました。

 カペナウムからイエス様のいるカナまでは、上り坂が多いのです。歩いてか、馬に乗ってか、彼は急いでいました。彼の願いは、「下って来て息子を癒やしてください」ということでした。イエスはその願いを聞くと、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません」と、ガリラヤ地方の人々の反応を言い表しました。けれども、この役人は、単純に息子の癒しを願って、「どうか子どもが死なないうちに、下って来てください」と願ったのです。その真剣な願いに、イエス様は「行きなさい。あなたの息子は治ります」と答えたのでした。

 この「行きなさい」と訳されている言葉は、人によっては「ぶっきらぼうな」言葉と言います。しかし、英語の聖書などを見ると、必ずしもぶっきらぼうではないと思われます。「安心して、息子さんのところに帰りなさい」と、優しく語りかけているように見えるのです。この役人は、この言葉に信頼し、治ると信じて帰って行きました。彼には、治る姿を見ることはできません。ただただイエス様の言葉だけが頼りでした。

 帰り道で、家からしもべたちがやって来て、息子さんは治りましたという朗報を聞けたのです。どんなに嬉しかったことでしょう。しかも、治った時間とイエス様が「治ります」と仰った時間が一致したのです。まさに、イエス様が直してくださったのです。

 家に帰った役人は、家族を集め、しもべたちも呼んで、ことの次第を話したことでしょう。それも喜んで話したことでしょう。このことは、役人一人でなく、家の者たちみんなの信仰になりました。あのナザレのイエスは力ある救い主だと。

 カナの地で信じたときは、何もそれを保証する、目に見えるものはありませんでした。ただイエス様の言葉を信じたのでした。このような状態の信仰を裸の信仰ということがあります。そして、信仰生活ではしばしばこのような信仰に立たなければならないことがあります。そういう時、イエス様の言葉を信じて立ち上がる勇気が必要です。イエス様の言葉を信じるとは、その人格、その心を信じることです。イエス様の愛と御力を信じ、信頼して身を任せる、そんな信仰に生きることができるのです。

 イエス様は、裸の信仰のままにしておきません。必ず、何らかの形で保証したり、報いてくださいます。心にともった小さな信仰の火を、消さないように、守ってくださるのです。役人の場合は、家から来たしもべたちとの会話の中に、癒しの時刻の一致というすばらしい報いを与えてくださいました。

 イエス様の言葉に触れつづけることは、どんなに信仰を励ましてくれるでしょう。今週も聖書に目を通しましょう。

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