礼拝メモ 4月25日

聖書 使徒の働き4章23節-31節

 今朝は、生まれたばかりの教会の祈りについて思い巡らしていきます。

 この24節から30節までに、教会の祈りが記されています。最初のことばは、神への呼びかけです。「主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。」彼らの祈りは、天地を創造された主なる神に捧げられています。

 ユダヤ人はバビロン捕囚という悲しい過去を持っています。しかし、この期間に偶像礼拝の空しさを知ったのです。そして、天地を創造した主なる神こそ、まことの神であると、再確認したのです。それが、この祈りの中にはっきりと呼びかけるものとなったのです。

 25節からの祈りのことばには、イエス様のことが記されています。その中には詩篇第二篇が引用されています。ダビデの預言だと語っています。そして、ヘロデやポンティオ・ピラトが当てはめられています。イエス様の十字架上の死とその結果の贖いが「あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められたことすべて」と記されています。

 そして、三つの願いを主にささげています。大胆に語らせてください。癒しを行わせてください。しるしと不思議を行わせてください。この最初の願いは、すぐ後で答えられます。「彼らが祈り終えると、…一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」その後、癒しも(5:16)、しるしと不思議も(5:12)、答えられています。

 しかし、この31節には、祈りになかったことが記されています。それは、「一同は聖霊に満たされ」という言葉です。彼らは、イエス様の代理である聖霊に満たされ、別の言い方をすると、イエス様に満たされていたのです。そして、大胆にみことばを語り、癒しをなし、しるしと不思議をなしえたのです。聖霊に満たされた人の特徴が、ここに表されています。イエス様にすべてをゆだね、任せていたのです。

 聖霊に満たされた人は、どこで何をするか、イエス様の御心に従っているのです。命の使い方、使命は、イエス様によって決められているのです。パウロのように、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言える人です(ガラテヤ2:20)。そういう人は、喜びと自由に生きていきます。そして、御霊の実を結べます。彼らは、イエス様にとどまっているからです。

 23節に「釈放された二人は仲間のところに」行ったことが記されています。これも、お祈りの答えでした。40年近く足の不自由だった人が歩けるようになった奇跡は、「エルサレムのすべての住民に知れ渡って」いたのですから(4:16)、仲間のクリスチャンも知って祈っていたことでしょう。その答えが、「釈放された」ということです。仲間のために祈ること、何と幸いな特権でしょう。私たちも、仲間のために祈っていきましょう。そうすれば、仲間でない人たちのためにも祈れるようになることでしょう。人のために祈って生きられるのは、何と幸いなことでしょうか。

 「神に向かって声をあげた」(23節)祈りも、豊かに答えられたと言って良いのではないでしょうか。三つの願い以上に、「聖霊に満たされ」た恵みも、祈りの答えですし、ペテロとヨハネの二人の釈放も祈りの答えです。

 私たちの祈りも、主が豊かに答えてくださるのです。私たちには、私たちが「求める前から」私たちに「必要なものを知っておられる」父なる神様がおられるのですから、御心を求めつつ、何でも祈れるのです。

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