礼拝メモ 4月18日

聖書 使徒の働き9章1節-18節

 イエス様の復活が人生の節目になったサウロの回心について考えてみましょう。

 この1節には、「殺害しようと息巻き」とあります。サウロには自分こそ正しいという自信があったのでしょう。しかし、自信がある人がみな、彼のように激しい行動に出るとは限りません。クリスチャンの信仰の中に、自分の正しさが否定されてしまうという不安が伴っていたのでしょう。「手紙を求めた」のは、自分の正しさを証明するために突き進んでいくサウロの心が見えます。そして、「男でも女でも」という彼の態度には、常識を越えた姿が見えます。当時は、女性を捕らえて牢に入れることが滅多になかったと思われるからです。正に、息巻いていたのです。人の目には狂気のように見えますが、本人は冷静の判断だと思っているのです。

 そこに、突然、天からの光が照らします。それは、「まばゆい」(22:6)、「太陽よりも明るく輝いた」光でした(26:13)。その光に打たれて、一行は地に倒れたのです。明るいだけでない、力をもった光でした。

 さらに、天からの声が響きます。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とは、サウロにとって意外な声でした。「どなたですか」とのサウロの問いに、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」(5節)とのことばに、仰天したのではないでしょうか。サウロにとって、十字架につけられて、呪われた犯罪人が、救い主であるとは、全くの驚きだったのです。とともに、恐れが彼を襲います。本当にあのイエスが救い主だとしたら、自分は恐ろしい罪を犯したことになるのですから。

 26章14節には、『とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い』ということばが書かれています。このサウロの心の状態を示す、イエス様のことばです。迫害をする方向が間違っていること、そして、ステパノの最期のことばのもたらす痛みを表しています。サウロは全く砕かれてしまいました。イエス様に降参したのです。

 イエス様はサウロの回心のために、アナニアというクリスチャンを送ります。彼は、「兄弟サウロ」と言って祈ってくれました。何という慰めに満ちた呼びかけだったことでしょう。その後、サウロの目から鱗のようなものが落ちます。見えなかった目が見えるようになります。それは、心の目も開かれたことを表しているようです。

 回心したサウロは、全く変わりました。コリント人への手紙では、「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心」したと言っています(Ⅰコリント2:2)。また「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」とまで言っています(Ⅰコリント9:16)。

 ピリピ人への手紙では、「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」(ピリピ1:21)と、また「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」ということばも書いています(ピリピ3:8)。

 ガラテヤ人の手紙では、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」と告白しています(ガラテヤ2:19−20)。私たちをでなく、「私を愛し」というサウロの心には、キリストが生き、キリストの心があるのです。この愛に生きることができるとは、何と幸いなことでしょう。

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