礼拝メモ 3月28日

聖書 ルカの福音書20章27節-40節

 今朝はパームサンデー、棕櫚の聖日です。今週は受難週。火曜日は論争の日でした。その日の論争は、多岐にわたっていましたが、今朝はその中から、復活問答を取り上げます。

 論争を持ち込んだのはサドカイ人でした。この人たちは、旧約聖書の初めの五つの書、いわゆる五書を信仰の土台にしていました。そして、政治的に権力を握っていました。そのため、ローマ政府との間に問題が起こらないように気を遣っていました。

 そんな中、ナザレ人イエスの評判が国中に広がり、何とかこの人の評判を落とす必要を感じて、復活のないことを認めさせようとしました。

 彼らの持ちだした論拠は、旧約聖書の中にあるレビラート婚です。これは五書の中の申命記25章にある規定です。サドカイ人は、七人兄弟を設定して、兄から弟まで、みな子どもがなしに死んだ場合、復活の際、その妻はだれの妻になるのかと、問いかけました。

 イエス様の答えは、彼らが「聖書も神の力も知らない」ので思い違いをしていると論じ(マタイ22:29)、まず神の力の理解から解きほぐします。

 復活した人たちは、天の御使いのようであり、もう「めとることも嫁ぐことも」ないと、説明します(20:34−36)。なぜなら、天においては、「子孫を起こす」(28節)必要がなくなっているからです。

 天国へ行っても二人は仲良く暮らしたい、と願っている人があるかもしれません。御国での関係は、この世の関係とは違ったものになるのです。また、私たちの復活のからだ、栄光のからだでは、今の頭脳より、今の感性よりすばらしいものになるはずです。ですから、夫婦関係がなくなり、もっと広い、深い関係が築かれるのです。

 イエス様のもう一つの答えは、聖書からの答えでした。五書の中の出エジプト記から、「モーセの柴の箇所」から取り上げた言葉です。「主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました」(37節)。この言葉の中に、よみがえりが含まれているのを、サドカイ人は分からなかったというのです。そして、イエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と喝破しました。アブラハムたちはよみ(陰府)にいて、神様の目には生きているというのです。そうでなかったら、よみがえりはないのです。言葉の上では変ですが、死んだ者の行くよみ(陰府)で生きているのです。アブラハムたちをよみ(陰府)に置きっ放しにするのでなく、イエス様が再臨する時、彼らをよみがえらせるのです。

 これを聞いた人たちは感心して、「先生、立派なお答えです」と言いました。思い違いを正されたのですから。

 さて、この論争の後、三日後に、イエス様は十字架につけられるのです。イエス様は、十字架の三日後によみがえると、弟子たちに語ってきました。十字架がどんなに苦しい刑であるかを知っていたイエス様が、ゲッセマネの園で祈ったのでした。「この杯をわたしから取り去ってください」と。十字架を、みこころと信じて進まれたイエス様は、「前に置かれた喜び」(ヘブル12:2)として、復活を信じたからです。

 私たちの生活には「苦難があります」(ヨハネ16:33)。しかし、イエス様のように、よみがえりを信じて、勇気をもって生きていきましょう。「神のみこころを行って、約束のもの(復活その他)を手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル11:36)。

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