礼拝メモ 3月21日

聖書 創世記22章1節-14節

 私たちの教団の年会が、この週に行われます。一年の締めくくりです。今朝は、アブラハムの信仰を思い巡らします。

 この時の背景は、1節にある「これらの出来事の後」という言葉に表されています。これらの出来事とは、待ち望んでいたイサクの誕生、イシュマエルを送り出したこと、そして、ペリシテ人との契約です。アブラハムにとって、イサクが最大の関心事になっていたのです。その時にあった、主からの試練が記されています。

 それは、アブラハムには過酷な試練でした。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリアの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

 アブラハムは、最初の召しを受けた時、「わたしが示す地へ行きなさい」と言われました(12:1)。そして、ここでは「モリアの地に行きなさい」です。

 かつては「親族や父の家を離れて」行かなければなりませんでした。今度は、「献げなさい」でした。アブラハムの信仰が試みられています。

 イサクは、アブラハムの相続人です。この子を通して世界が祝福されるようになるのです。それが神の約束でした。しかし、アブラハムは躊躇することなく、従いました。モリアの山までは、三日かかりました。その間、アブラハムは、この約束と今度の命令とどう繋がるのか、悩みながら進んでいったのです。なぜなら、全焼のささげ物として献げれば、イサクは死ぬのですから。

 5節で、アブラハムは二人の若者に言います。「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と。この時、アブラハムは、イサクが生きて戻ると考えています。しかし、それがどういう形でかは分かりません。ただ、神は測り知ることができない方ですが、信頼することができる方となっています。ここに、アブラハムの信仰が働いています。

 さらに、8節でイサクがアブラハムに尋ねます。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」アブラハムは答えました。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」と。アブラハムは、試みる神様は備えてくださる神様だと信じたのです。神はいのちの主です。ですから、アブラハムはイサクをささげても、主が生かしてくださると信じたのです(ヘブル11:19)。

 パウロは言いました。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)。アブラハムは、約束を知っていました。しかし、それを越えて、神がいのちの主であることを信じて、イサクを献げようとしたのです。

 ここに、試みと備えの出来事が記されています。振りかえって、十字架と復活は、究極的な試練であり、備えだったのです。イエス様は父なる神様のみ言葉に信頼して、十字架に向かいました。そして、神様は、復活という新しいいのちを備えられたのです。そう考える時、父なる神様は十字架をどのように見ていたかが、少し分かります。「父の涙」という讃美歌は、そのことを歌っています。「十字架からあふれ流れる泉、それは父の涙。十字架からあふれ流れる泉、それはイエスの愛」。アブラハムはひどい試練を通らせられたのでしょうか。神様は、イエス様を十字架につける苦しみと悲しみを、アブラハムに少しでも分かってほしかったではないかと思います。

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