礼拝メモ 2月7日

聖書 ヨハネの福音書19章31節-42節

 本日から使徒信条のことばに戻ります。昨年は、「十字架につけられ」を学んで、その後、十字架上の七言を学びました。十字架って、そんなに大事なの? て思っている人もあるかもしれません。使徒パウロはコリント人への手紙に、こう書いています。『私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していた』(Ⅰコリント2:3)。クリスチャンにとって、十字架は救いの土台なのです。使徒信条の中でも「罪の赦し」という文言があります。神を無視し、神と無関係に生きていた罪を十字架のゆえに赦される恵みは、信仰生活の中心です。それで、十字架の話しを何度もしました。

 さて、昨年の続きとして、「死にて葬られ、陰府にくだり」の部分を思い巡らします。

 1 「死にて」とあります。イエス様の生涯の中で、「聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」までは、私たちの生涯とは別の経験です。しかし、「死」という点では私たちとイエス様とは何ら変わらない経験となります。私たちと同じ立場にまで来てくださったことが分かります。

 でも、十字架にかかられたら死ぬことは分かっていました。ですから、ことさらに「死にて」と言わなくてもよいように思われます。これには、初期の教会の事情があったようです。神の御子が死ぬことはあり得ないと、考える人たちが、十字架の死は仮の姿での死だった、と考えるようになったのです。それに対して、教会は、イエス様は実際に死なれたことを主張しているのです。百人隊長も槍を刺した兵士たちも、あるいは葬儀をしたアリマタヤのヨセフもニコデモも、実際に死なれたイエス様を知っていたのです。

 2 「葬られ」たイエス様でした。十字架につけられて死んだ人は、そのまま放っておかれ、鳥についばまれたり、野犬に噛まれたりしました。ですから、イエス様が葬られたことは、イエス様への敬意が示されたことなのです。

 しかし、イエス様の葬儀をしたのは、アリマタヤのヨセフとニコデモの二人だったことは、さびしい葬儀だったと思います。弟子たちはいないのですから、この二人の信仰から来る勇気はみごとでした。

 そして、イエス様は墓をきよめたのです。ツァラアトの人に手を伸ばして触ったイエス様は、汚れることなくその人をきよめました。同じように、イエス様は、葬られることによって墓をきよくしたのです。

 3 イエス様が「よみにくだり」なさったことが、使徒信条では語られています。聖書にはペテロの手紙にヒントがあります。よみは、陰府とも書きます。死者のいく所です。そこには、神を頼っていた人も無視していた人もいます。そこに行って、イエス様は、十字架の贖いが完成したことを告げ、パラダイスを確保したのです。

 イエス様はそこから復活してゆくのです。もう以前のからだではない、新しいからだ、栄光のからだに復活したのです。イエス様は、私たち人間の行き着く先まで行ってくださいました。そして、復活です。ですから、私たちは死を恐れることはないのです。

 最後に、イザヤ書63章9節を読みましょう。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」ともにあってくださる主に感謝。

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