礼拝メモ 3月7日

聖書 テサロニケ人への手紙第一 1章1節-10節

 今朝は、使徒信条の「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん」を考えます。「かしこより」とは、天から来られるということで、クリスマスを初臨、もう一度来られることを再臨と言います。

 使徒信条のこれまでの文章には、イエス様の生涯が簡単に語られていましたが、その目的については何も語られていません。そのために、聖書から解説をしてきました。しかし、この再臨のところでは、「さばきたまわん」と、目的が語られています。それは、イエス様の生涯は、私たちの贖いのためであったことが明らかだからでしょう。しかし、再臨については、神様の計画を知らせる必要があったのだと思われます。

 さて、このテサロニケ人への手紙は、二つあり、どちらも、主イエス様の再臨をテーマにしています。それで、再臨書簡と呼ばれます。この1章では、パウロはテサロニケ人のことをほめています。

 2節で感謝を表して、3節でその理由をあげています。「信仰から出た働き」と「愛から生まれた労苦」と「望みに支えられた忍耐」です。信仰、愛、望みは、パウロが好んで用いた徳です。

 さらに7節には、マケドニアとアカイアのクリスチャンたちの模範になったと、ほめています。そして、9節、10節では、人々がテサロニケ人のことをどう言っているかを、三つの面から書いています。

 過去という面から、「偶像から神に立ち返ったこと」、現在という面から、「生けるまことの神に仕えていること」、将来という面では、イエス様の再臨を待ち望んでいることです。これらを、信仰によって偶像から神に立ち返り、愛のゆえに生ける神に仕え、望みを持って主の再臨を待っていると、見ることもできます。

 最後の、再臨については、少し説明を付けています。「この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです」と。やがて来る御怒りとは、再臨されるイエス様が審判をなさることに繋がっています。ここに、「生ける者と死にたる者をさばく」主イエスのことが言及されています。生ける者とは、再臨の時に生きている人たちです。死にたる者は、再臨に際してよみがえらされる人たちです。

 さばくことができるイエス様は、正義を実現する力を持っている方です。天地を創造されて、あらゆる法則を生み出した方ですから、また十字架で死んでよみがえられた方ですから、さばくことがどのようなものかを知っておられるのです。

 イエス様を救い主と信じて頼っている者にとっては、さばきは怖くありません。ただし、信仰生活の評価はなされます。ですが、御国に入れていただき、栄光のからだをいただけるのですから、感謝があるのみです。

 信じていない人には、まず、道徳的な基準でのさばきが考えられます。たとえば、『臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である』とあります(黙示録21:8)。また、神が用意した救いを拒む者は、当然さばかれます。イエス様を信じるなら、「どんな罪も、冒涜も赦していただけます」(マタイ12:31)が、救いを拒むなら、さばかれます。今、おわびをして、罪を赦していただき、恵みに生きるなら、「よくやった。忠実なしもべ」とほめられるのです。

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