礼拝メモ 2月28日

聖書 使徒の働き1章9節-11節

 よみがえられたイエス様は、「天に昇り、全能の父なる神の右に座し」たのです。ここでいう「天」とは、イエス様のもと居た場所を指しています。「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です」と言われたイエス様ですから(ヨハネ3:13)。イエス様が「天」と言う時、それは、この世のどこかではなく、神のおられる別次元というか、霊の世界のことです。そこに帰られたのです。

 神の右の座とは、神の権威を表しています。イエス様が天に帰られる前に、こう言われました。「わたしには、天においても地においても、すべての権威が与えられています。」まさにこの言葉が現実となったのです。イエス様は、天にあって、この世界を支配する権威を、父なる神様から受け取った王なのです。ですから、しもべであったイエス様が王となり、新しい時代が始まったのです。地上の生涯でなされたイエス様の働きは、神のことばを伝える預言者として歩まれたのでした。その結果、十字架につけられ、贖いの代価となる神の子羊の務めを果たしたのです。

 天に上ったイエス様は、王としての勤めに入るわけですが、この世を見ると、イエス様の支配が見えないと思う方も多いでしょう。今、新型コロナウイルスの感染のことや地震のことなどを考えるとそう思う方もあるでしょう。しかし、主イエス様の恵みの支配がなかったら、この世界はさらにひどいことになったいたでしょう。イエス様の支配は、あれをしろ、これをしろ、という命令でなく、私たちに寄り添う愛の支配です。

 ですから、イエス様の今の務めは大祭司としての「とりなし」です。このことを詳しく述べているのは、ヘブル人への手紙です。

 「イエスは永遠に存在されるので、変わることのない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられる」のです」(ヘブル7:24−25)。

 なお、パウロの手紙の中にも、主イエスのとりなしが語られています。「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしをしていてくださるのです」(ローマ8:34)。

 ヨハネも手紙の中に、イエス様のとりなしを語っています。「私の子どもたちよ。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます」(Ⅰヨハネ2:1)。

 私たちの心が、罪に気づき、心が痛むとき、サタンは「ほれみろ、おまえは天には行かれないんだ」とささやきます。その時こそ、イエス様のとりなしが生きて働くのです。「私の十字架に免じて、彼を赦してください」ととりなしてくださいます。私たちは、このとりなしをいただいて、神の子として生きていけるのです。そうした、イエス様のとりなしをいただきながら、罪を犯さないで生きていけるようになるのです。

 その時に、私たちの心を助けてくださるのが、聖霊です。「御霊も、弱い私たちを助けてくださいます」とパウロが語っています(ローマ8:26)。

 イエス様は神の子ですから、もっとも強い誘惑を受けて、その上で勝利した方です。「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(ヘブル2:18)。信仰を持って、この方にお頼りしていきましょう。

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