礼拝メモ 2月14日

聖書 コリント第一 15章20節-28節

 使徒信条では、「三日目に死人の中からよみがえられた」と告白します。

 それは、埋葬された金曜日から数えて三日目の日曜日です。主ご自身、次のように話していました。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」(マタイ12:39−40)。イエス様は、地に下っただけでなく、よみに下り、そしてよみがえられたのです。

 「よみがえられた」という表現には、自分からの復活という意味合いがあります。しかし、使徒の働きには、「神がよみがえらせました」となっているところが多いのです。この違いは、主イエス・キリスト様が、真の神、真の人であることを表しています。

 イエス様がよみがえられた場面は、だれも見ていません。墓が空になり、弟子たちに現れたこと、日曜日が主の日となり、弟子たちが力強く証しできるようになったこと、そして、教会が今も存続していること、これらは、イエス様の復活の結果です。

 ヨハネの福音書20章を見ると、弟子たちの様子が分かります。埋葬をした墓に、「週の初めの日」つまり日曜日の「朝早くまだ暗いうちに」やって来た「マグダラのマリア」は、入り口を封じていた「石が取りのけられている」のを見ました。中には、イエス様のお体はありませんでした。すぐにペテロたちに伝えました。ペテロと「イエスが愛されたもう一人の弟子」ヨハネが墓を見に行きました。墓には、イエス様のお体に巻いた亜麻布が置いてあり、頭を包んでいた布は離れたところに「丸めて」ありました。ヨハネは、これらの物を見て、イエス様がよみがえられたと信じました。しかし、それは、聖書のことばと結びついてはいませんでした。

 次にマグダラのマリアのことが出て来ます。初めて、よみがえられたイエス様が現れます。マリアの涙は、悲しみの涙から喜びへと替えられました。しかし、マリアの報告をほかの弟子たちは信じてくれませんでした。ペテロを始め、弟子たちはイエス様の復活を信じていませんでした。ですから、イエス様は、彼らの前に現れて、よみがえられたご自身の印象を植え付けることが必要だったのだと思います。

 日曜日は、イエス様がよみがえられた日です。日曜日は復活を祝う日となりました。土曜日の安息日とは違う意味を持つようになりました。集まって、主の復活を喜び、賛美をし、復活の希望をもつことは、日曜日の過ごし方として、ふさわしいのです。

 エルサレムに、「園の墓」と言われる所があります。イエス様が葬られた墓ではないかと考えられている横穴の墓です。ある日、日本から行った牧師がそこを訪れました。木戸から中に入るとベッドのような所がいくつかあり、こういう所にイエス様は納められたのだと、感慨深いものがありました。外へ出ようとして、木戸の裏に、「ここにはおられません。よみがえられたのです」と英語で書かれているのに気がつきました。その牧師は声を出して読みました。そして、木戸を開けて、大声で「ここにはおられません。よみがえられたのです」と英語で叫びました。すると、「黒人の大きな奥さん」が、「おお、そうです。よみがえられたのです。ここにはおられませんね。兄弟」と言って、その牧師に抱きついてきたのです。まるで小錦に相手にされているような感じでした。彼女は、涙を流していました。それを見た牧師さんは、イエス様の復活は全世界で信じられているのを実感しました。ハレルヤ。

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