礼拝メモ 1月17日

聖書 ローマ人への手紙5章1節-11節

 今月は教会総会が開かれます。今朝から三回、教会について考えます。今朝は、ローマ人への手紙の5章です。

 この手紙を書いたのはパウロですが、ふつう、この手紙は教理の手紙と考えられています。確かに、人間の罪から始まって、信仰によって義と認められる恵み、聖霊による信仰の歩みなど、教理的にまとまっています。しかし、パウロは、この教理を生きた人です。文章は硬い感じがあるかもしれませんが、パウロの心はフツフツと燃えていたのではないかと考えます。その意味で、この5章を見ると、すばらしい章であると言えます。パウロは、イエス様の身代わりの死をしみじみと考えて、その結果与えられる恵みを次々と数えているように見えます。

 4章ではアブラハムの例を上げながら、信仰によって義とされる恵みを語ってきました。1節でそれを締めくくり、すぐに心に浮かんだ恵みを「神との平和」と語っています。パウロは迫害に明け暮れていた時がありました。しかし、ダマスコに向かう道で、主イエス様から「とげのついた棒を蹴るのは、あなたには痛い」と言われました。それは、迫害をしても、相手のクリスチャンの反応は、普通の人の反応と違い、穏やかでした。迫害に猛反発してくれば、パウロは満足だったのかもしれません。でも、穏やかなのです。そして、迫害をしながら彼の心に「痛み」が生まれていたのです。それが、イエス様を救い主と信じたとき、その痛みは取り去られ、神との平和が心に満ちたのです。それは恵み以外の何ものでもありませんでした。

 これこそ恵みだ、と大声で言いたかったのではないでしょうか。それは、また、パウロの求めていた復活の栄光にあずかる希望へと向かいました。

 信仰生活には、良いことばかりがあるのではありません。パウロはいろいろな苦難に会いました。苦しみをマイナスに捕らえて、意気消沈するのでなく、それを訓練の時と捕らえて、プラスに考えました。苦しみに耐える忍耐力が育つこと、そして、ふところの広い人となり、イエス様のような品性が生まれると信じたのです。

 そのように考えられる理由は、心に注がれている神の愛でした。伝道と牧会に明け暮れたパウロには、神の愛が迫っていたのです。そして、神の愛を口にすると、どうしても解説したくなったのです。パウロは神を冒涜し、教会を迫害し、クリスチャンに暴力をふるった人です。そんな自分が福音を伝える人になったのは、神の愛に触れたからにほかなりません。

 「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」神の戒めを守れず、神のために生きていなかった不敬虔な者だったことを思い起こします。

 それ以上に、罪人であった者のために死んでくださった主イエス様を思うと、パウロは神の愛の深さ、大きさに、心がふるえる思いだったでしょう。そして、神の怒りから救われ、神と和解された、とパウロの心は拡がっていきます。イエス様は「わたしに味方しない者はわたしに敵対している」と語った方でもあります。パウロは、単にやってはいけないことをしてしまった、でとどまらず、神に敵対していた者だったのに、神の側から和解の手を延べてくださったのです。何とありがたいことでしょうか。主イエス・キリストによって神を喜ぶ人となったのです。教会は、そのような人の群れではないでしょうか。

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